2024年6月13日
「時事新報」から譲り受けた東日天文館プラネタリウム
星空の写真を撮り続ける元スポニチ社長河野俊史さんがプラネタリウム「東日天文館」を紹介していたが、その続報——。
1937年竣工の9階建て。6階から上が東日天文館。12人乗りエレベーターが3基。
プラネタリウムは「時事新報」が「その繁栄策として計画」し、「その資金として慶応関係者から集めた36万円が残っていた」「東日は時事合同後、
東日館を建設し、そこにプラネタリウムを開設した」と、『毎日新聞百年史』にある。
福沢諭吉が創刊した「時事新報」が経営難に陥り、「東京日日新聞」が「時事新報」の題号とともに、その設営権を譲り受けたのである。
「東日天文館」は38(昭和13)年11月、オープンした。プラネタリウムは、前年開業の大阪市立電気科学館(現市立科学館)に次ぐ国内2番目。直径20㍍のドームに独ツァイス社製「カールツァイスⅡ型」が据えられた。
開館1年で入場者は百数十万人にのぼった。有楽町の観光名所だった。しかし、45(昭和20)年5月の大空襲で焼夷弾を浴びて焼失。営業は6年半で終わった。
「時事新報」から譲り受けたのは、プラネタリウムだけでなく、大相撲の優勝力士写真掲額、クラシック音楽の登竜門・日本音楽コンクール。もうひとつ、「時事新報」発行の「日本小学生新聞」を「東日少国民新聞」として翌37年1月5日付けから発行した。もっとも「大毎小学生新聞」はその前年の36(昭和11)年12月22日に創刊しており、現在の「毎日小学生新聞」のルーツである。
当時、「東京日日新聞」を発行する「大阪毎日新聞社」の社長は奥村信太郎、主筆は高石真五郎(のち社長)。ともに慶應義塾大学卒。2人は入社1901(明治34)年同期だが、奥村は博文館→広島日報経由だから3歳年上だ。
大毎を全国紙に仕立てた5代社長本山彦一。新聞人のスタートは「時事新報」だった。大毎初代社長渡辺治、2代社長高木喜一郎も「時事新報」で育った。福澤諭吉が社説に健筆を振るっていた時代である。
そんな大毎・慶應・時事新報の関係から、高石に「時事新報」再建策の相談があった。高石は、「大阪新聞」創刊者の前田久吉(のち産経新聞社長、東京タワーの生みの親)を推薦、毎日新聞側の代表として松岡正男が「時事新報」社長、前田は専務となった。松岡は日本のラグビー創始慶応義塾ラグビー部の草創期の選手。羽仁もと子の弟。大毎では経済部長をつとめた。
しかし、経営再建はならず、1936(昭和11)年12月の株主総会で「時事新報」の増資案が否決され、解散が決まった。で、題字とともにプラネタリウムもとなるのである。
しかし、株式会社時事新報は、資本金7000万円の会社として存続、毎年株主総会を開き、所要の手続きをして生き残っていると、元産経新聞社の鈴木隆敏さんが『新聞人福澤諭吉に学ぶ―現代に生きる「時事新報」』(産経新聞出版2009年刊)に書いている。
警視庁の記者クラブ「七社会」は、「時事新報」が抜けたあとも名前を変更していない。
(堤 哲)