2024年6月17日
大森実外信部長が推した稲野治兵衛東京本社社会部長
55入社倉嶋康さんのFacebookに、社会部時代の全舷での記念写真があった。東京五輪が開かれた1964(昭和39)年5月、その前年に大阪本社社会部長から赴任した稲野治兵衛部長時代で、倉嶋さんは月賦で買ったばかりのニコンFで撮影したという。
左から佐々木叶、西重義、岩崎繁夫、稲野治兵衛、木下剛、伊藤延司。ちょうど60年前。全員が鬼籍である。
稲野さんは、1961(昭和36)年3月~大阪本社社会部長。2年後の63(昭和38)年8月、東京本社社会部長となった。東西の社会部長5年5か月。名社会部長だった。
「あーすは、トーキョに、出ていく、からにゃあー、なーにが、なんでーも、勝たねばならぬ」
行きつけのキタの居酒屋「小菊」で、「王将」をがなって赴任したらしい。当時の藤平信秀デスク(寂信、のち副社長)が書き残している。見出しは「暗闇の牛」。当時の狩野近雄東京本社編集局長が付けたあだ名で、ちょっとやそっとのことで動じないという意味だろう、と書いている(『社会部記者—大阪社会部70年史』部長プロフィール)。
東京の前任社会部長は、パリ特派員から。東京五輪の直接の担当者・仁藤正俊運動部長とそりが合わなかったようだ。
『20世紀を駆け抜けた男 仁藤正俊伝』(2006年自費出版)に、56入社永井康雄さん(6月17日に93歳の誕生日を迎えた。元気だ)が当時の大森実外信部長の証言を引用している。
「ソルボンヌ留学歴のああいう人柄だったので、自薦他薦のOBたちが(社会部長の)追い出しにかかったとき、私は田中香苗主幹に治兵衛を推した。…田中主幹は『大阪で稲野と会ったが、素晴らしい男じゃ。決めたよ』とドン・ピシャリ」
仁藤は狩野編集局長から「紙面は競技会にするな。運動会的なお祭りにしろ」といわれていた。ヒューマンドキュメントの展開——。一連のオリンピック報道で、仁藤運動部長が代表して社長賞を受けている。
稲野社会部長は、オリンピックイヤーに連載した「組織暴力の実態」で日本新聞協会賞を受賞、併せて「社長賞」も受けている。社長賞に名を連ねた記者たちは、副部長佐々木武惟、部員道村博、寸田政明、吉野正弘、山崎宗次である。これも全員鬼籍である。
稲野さんは、毎日新聞社が新旧分離したとき、旧社の社長。私(堤)が大阪社会部に転勤時、編集局長だったが、残念ながら謦咳に接する機会はなかった。
1992年7月7日没、74歳だった。
(堤 哲)