随筆集

2024年6月21日

ワンマン吉田茂首相が「テンノーは?」と尋ねた、本田親男さん

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 京都大学貴志俊彦教授の連載「戦中写真を読む」⑧6月18日付に、大毎社会部副部長・本田親男記者(当時36歳)が木箱を机に原稿を書く写真が載っていた。写真は、その部分をアップにしたものだ。北平(現・北京)で1937年7月27日撮影、と説明にある。

 本田さんは48(昭和23)年12月、49歳で毎日新聞社長に就任、58(昭和33)年1月には代表取締役会長、61(昭和36)年に辞任、最高顧問に就任した。社長・会長12年余、「本田天皇」「ワンマン社長」と呼ばれたようだ。ワンマン吉田茂首相が「テンノーはどうしているね」と聞いてきたと、元副社長・住本利男(元政治部長)が『新聞人本田親男』に綴っている。

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 64入社の私(堤)には入社前の話で、本田さんのことは一切知らない。社会部記者としては、大変優秀だったらしい。しかし、経営者としての良い評判は聞かない。

 『新聞人本田親男』(1983年刊)は、A5判、厚さが6㌢もある箱入りで、「追想」が424㌻、「論談」が330㌻、の2分冊である。社会部の先輩で、筑波大学→日本大学でジャーナリズム論担当の天野勝文元教授からいただいた。

 あとは、そこからの引用。

 1924(大正13)年4月、神戸新聞から大毎入社。24歳だった。神戸支局→大阪社会部。「社会部長阿部真之助(元NHK会長)の薫陶を受ける」

 29(昭和4)年12月、長崎通信部主任。翌年7月の九州風水害で通信が途絶。「長崎の被害を長崎―上海―マニラ―グアム―小笠原―東京の外国電報で送稿、特ダネとなる」

 31(昭和6)年9月、満洲事変発生と同時に満洲へ特派。

 32(昭和7)年1月、上海事変の現地報道に従事。2月、「爆弾三勇士の特ダネ速報」。

 34(昭和9)年1月、大毎社会部副部長。4月「大毎・東日両社の東西大懇親会が豊橋で開かれ余興係委員となる」

 36(昭和11)年8月、ベルリン五輪の特派員。

 37(昭和12)年7月、盧溝橋事件勃発で華北に特派、特派員団の指揮と現地報告に従事。連載「戦中写真を読む」の写真はこの時のものだ。

 社会部記者として事件が起きると、現場へ出される。エース記者の面目躍如である。

 38(昭和13)年2月、神戸支局長→翌39年3月社会部長→42年12月編集局次長→43年4月整理部長兼務→45年8月7日編集局長。「敗戦の日」の新聞を制作。2面に井上靖記者の「今日も明日もわれわれは筆をとる」。

 同年11月、45歳で取締役に就任。3年後に社長に就任した。

 『毎日労組二十年史』(1967年刊)に「本田会長退陣」の項目がある。

 「13年間の本田体制は終わった」と、月刊「文藝春秋」61年3月号の記事を紹介している。《(戦後の)民主化旋風の中から生まれた平民社長は、いつの間にか‟天皇”と呼ばれる絶対支配者になりさがった。昭和33年1月、社長を空席にしたまま会長の席に移った時、‟天皇”から‟法皇”に変わったという批判も生まれた》

 61年1月20日大阪本社で開かれた株主総会。会長辞任の挨拶で本田さんは「毎日新聞を私の生命と同じように愛しています。Old soldiers never die, they only fade away」と言い終え、自ら音頭をとって毎日新聞万歳を三唱した。

 『新聞人本田親男』の「論談」にジャーナリズムの項目がある。そこからの引用。

 《最近の新聞を見て、どうひいき目に見ましても、あまり面白くない。…これは、新聞社の取材面で、まだ新聞記者の行動性というものが完全に健康を回復していないからではないか。太平洋戦争が終わるまでの15年間、生き生きとしたジャーナリズムは、軍や官僚のためにほとんど圧殺されそうになりました。この間に、記者諸君の新聞というものに対する考え方は、往年とは随分に姿を変えてしまいました。軍や官庁から渡される発表プリントを、少し手を入れたり、あるいはそのまま記事にして掲載するという習慣がつきました。この習慣が、新しい時代を迎えた現在も、まだ完全に払拭されていないように私は思います。今日の外勤記者の不活発、取材における突っ込み方の弱さなどは、この習慣に由来すると言えるのではないでしょうか》=1947(昭和22)年10月28日、京都で開かれた日本新聞協会主催の第3回新聞講座における講演。

 本田さんは、1980(昭和55)年7月30日没、80歳。

(堤  哲)