随筆集

2024年8月5日

米軍による原爆投下から79年-「ヒロシマの緑の芽」の共著者、元NY支局長、今村得之さんのこと

 ——大森実は一九四七年七月、広島を取材している。

 社会部長から「原爆投下から二年になるのに合わせ、広島に出張し特別企画を書いてみる気はないか」と声を掛けられた。入社二年目で大きな仕事を任されたのだから、社会部は大森の取材力、筆力に信頼を置いていたのだろう。

 「ヒロシマ」報告には、今では古典にさえなった米ジャーナリスト、ジョン・ハーシーが書いた『ヒロシマ』がある。これは、原爆投下直後の広島の街を歩いて被爆者にインタビューをしたルポで、これを掲載した米誌ニューヨーカーは売り出し直後に百二十万部を売り切り大反響を呼び、その後、本にもなった。

 大森はハーシーが取り上げた日本人六人のその後を丹念に取材し社会面に記事を掲載した。

 毎日新聞現論説委員小倉孝保著『大森実伝』(毎日新聞社2011年刊)からの引用だ。

 この連載記事は、『ヒロシマの緑の芽』として1949年3月、世界文学社から出版された。

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国会図書館のデジタル資料から

 その冒頭に大森実が書いている。《「君がもし広島で何か書こうと考えるのなら、これを一読しておくべきだね」と、大阪駅に見送りに来た同僚の記者が一冊の洋書を窓から入れてくれた》

 ジョン・ハーシー著『ヒロシマ』である。ハーシーは46年5月、従軍記者として広島へ入り、被爆者から聞き書きした。同年8月に「ニューヨーカー」誌に掲載され、センセーションを巻き起こした。「ノーモア・ヒロシマ」の流行語を生んだのは、この本といわれる。

 大森実にこの洋書を差し入れたのが、今村得之だった。大森は「同僚記者」と書いているが、9歳年上の先輩記者である。

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今村得之さん

 今村はハワイ生まれの日系二世。1938(昭和13)年慶大経済卒で、見習生として入社した。アメリカンフットボール部にいて、日本代表選手として米国遠征したこともある「六尺超の偉丈夫」である。戦前は上海支局、ラングーン支局で勤務し、戦後は東京本社欧米部から大阪本社社会部に転勤になって、45(昭和20)年8月入社の大森と出会う。

 2人とも英語が得意で、GHQ(連合国軍総司令部)担当だった(『大毎社会部70年史』)。47(昭和22)年8月、「アメリカとの初電話」(今村得之、大森実)で社会部長賞を受けている(社報)。

 ちょっと話がそれるが、阪神甲子園球場は、この8月1日に完成100年を迎えた。敗戦でGHQに接収されていたが、戦後初めて使用が許可されたのが48(昭和23)年3月30日に開幕したセンバツ(第19回全国選抜中等学校野球大会)であり、センバツ終了後の4月13日に行われた「第1回毎日甲子園ボウル」である。

 「甲子園ボウル」の担当記者だった葉室鐡夫(1917~2005、36年ベルリン五輪200m平泳ぎの金メダリスト)が、GHQとの交渉にあたったのは、当時、大毎渉外部副部長で、戦前アメフトの全日本チームでアメリカに遠征した慶大出の今村得之氏と、書き残している。

 今村は、1949(昭和24)末、新聞協会の第1回渡米記者団。51(昭和26)年7月には朝鮮戦争特派員16社18人に加わった。「朝鮮前線から第一報/痛々しい戦火の跡 廃屋の中から煙立つ」の見出しで毎日新聞に署名入り原稿が載っている。

 「京城附近の飛行場上空で飛行機が地上に近づくと人家の破壊された様子や爆弾であけられた大きな穴などがあって戦争の災禍の生生しいものが見られた。記者はこれらの痛ましい光景をみるにつけ、いまさらのように太平洋戦争当時のことを思い出した」

 1952(昭和27)年7月19日ヘルシンキ五輪開会式。特派員は社会部福湯豊・写真部安保久武で、競技役員として水泳の葉室鐡夫・陸上の大島鎌吉。当時ロンドン特派員だった今村も合流。「タイプが打てない。助っ人を」と頼まれ、ロンドン大学日本語学部の講師(のちに日本研究の一人者)を送り込んだという。

 その後、NY支局長。そこでがんを発症。56年1月27日逝去、43歳だった。

 当時NY支局員だった大森実は「休暇を取って、闘病中の今村さんの付き添いをしたい」と当時の外信部長に直訴した。今村は「ロンドン、NY特派員。全うできた」と大森に話したという。

 56年3月1日付けで北米総局長が新設となり、初代総局長に外信部長枝松茂之、総局員に三好修・関口泰。NY支局長の後任に大森実が就いた。

=敬称略   (堤  哲)