随筆集

2024年8月9日

乗客・乗員524人の全調査、日航ジャンボ機墜落事故から39年

 日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落して死者520人を出した事故から1か月。1985(昭和60)年9月12日付け毎日新聞は、乗客・乗員524人の全調査を中面見開きで掲載した。

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 対社面トップに

   「生」の重み にじみ出た/日航123便の全調査を終えて

 という見出しで、取材班を代表して82入社の社会部原沢政恵さんが書いている。

 《…乗客乗員全調査を行うため私たちが作り上げた五百二十四枚も調査票は、一枚々々にかけがいのない人生の重みを秘めて机の上にうずたかい山をつくった。

 買ったばかりの家と、生まれたばかりの息子と、昇進したばかりの課長のイスを残して死んだ男がいた。

 幼い子を抱えて離婚、今度こそ幸せに暮らせそうな相手を見つけたとたん死んだ女がいた。

 一流ホテルに泊まってディズニーランドで遊ぶとびきり豪華な夏休みの帰りに全員が死んだ一家がいた——。》

 社会部全調査班のメンバーは、73入社三浦正己をキャップに、80年入社梁瀬誠一と、原沢の3人。「こういう緻密な仕事は、国立大学出身者でないと」と人選した当時の社会部筆頭デスク63入社澁澤重和は、こういったという。

 三浦と梁瀬は東大、原沢は東京外大の出身である。

 特集は524人全員の姓名、年齢、この便に搭乗した理由を書いて、グループ分けしている。

 複数家族で8組38人▽一家全員16組55人▽夫婦と子3組10人▽父と子7組16人▽母と子12組32人▽親族6組15人▽仕事仲間と33組83人▽夫婦4組8人▽婚約者3組6人▽友人など15組33人▽観光など25人▽学生11人▽児童・生徒3人▽ひとり出張へ32人▽ひとり出張帰り101人▽帰省など41人▽乗員15人。

 編集局にもコンピューターが入り始めた時期。しかし、全調査は大変だったと思う。

 キャップの三浦は、遺族会とも連絡を取り、遺族の手記をまとめた『おすたかれくいえむ』(87年3月刊)、その4年後に続編『再びのおすたかれくいえむ』をいずれも毎日新聞社から出版。さらに事故発生時の機内の写真を入手したことをこの毎友会HPで紹介した。

 https://www.maiyukai.com/essay/20230512-2.php

 事故発生と同時に社会部、前橋・長野両支局から御巣鷹山の現場に向かった記者は何人いたのか。写真部は現場に行かなければ写真が撮れない。その苦闘ぶりは写真部史『目撃者たちの記憶』(2022年刊)に詳しいが、水を求めて「クマザサの葉をちぎってちょっと出てくる汁をすすった。フィルムが入っている缶で自分の尿さえ飲んだ」。

 「カクヘキ(隔壁)」って? 事故原因を早々にスクープ報道した75入社・社会部菊池卓哉記者の回想もこの毎友会HPにある(2022年8月15日)。

 https://www.maiyukai.com/essay/20220815.php

 ——5年間の支局勤務を経て東京社会部に異動になった85年夏、日航ジャンボ機が群馬県の山中に墜落して520人が犠牲となった。リュックに登山道具を入れて社に上がり、「上野村は支局時代に通っていました」と現場取材を志願した。

 ホバリングするヘリから現場の尾根に飛び降り、ナタとブルーシートを使って建てた小屋で雨をしのぎ、10日以上に渡って自炊しながら取材した。原稿は無線で中継車を経由して村の前線本部に送り、それを本部詰めの記者が文字起こしして本社にファクスする、アナログの時代だった。

 山から下りると、全国各地の乗客のご家族を訪ね歩いた。「帰れ!」と塩をまかれたこともあった。「記者は、時には人の心に手を突っ込むような取材をしなければならない。だからこそ、相手に誠実に向き合いながら関わりを育め」。先輩に言われて、以来今に至るまで慰霊登山に通いながら、ご家族の軌跡を記してきた。

 これは、80入社・萩尾信也元社会部編集委員の日本記者クラブ会報2024年3月号「書いた話 書かなかった話」からだが、元写真部・84入社佐藤泰則カメラマンも毎年慰霊登山をしているひとりだ。

 8月12日、事故から39年を迎える。

(堤  哲)