2024年9月24日
平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき 33 三河島—関東大震災後の世相と少年少女たち
文・写真 平嶋彰彦 奇数月の14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53537943.html
三河島を最初に訪れたのは大学4年(1968・昭和43年)の夏である。きっかけはマンガ雑誌『ガロ』増刊号「つげ義春特集号』に掲載された『ねじ式』だった。
発売されて何日目だったか、宇野敏雄が「これ見ましたか。凄いですよ」といって見せてくれた。宇野は大学写真部の1年後輩で、退職後に始めた街歩きのメンバーの一人。
ページを開いたとたん興奮した。たまたま映画『野いちご』(監督 イングマール・ベルイマン)を見たばかりだった。『ねじ式』の脈略のない物語の展開は、『野いちご』の冒頭に描かれる主人公の悪夢を彷彿させた。『野いちご』はベルイマンの代表作とされるが、つげ義春の『ねじ式』はそれを凌駕しているように思われた。
『ねじ式』の舞台になっているのは、鄙びた漁村であると同時に近代的な都市でもあるという非現実的で奇妙な空間である。宇野は伊豆の下田で育ち、私は房総の館山で育った。そのせいもあり、浜辺の光景は幻想の世界とはいいながら、いつかどこかで見たなつかしさを覚えた。あれこれ話していると、つげ義春の投影とみられる少年がさまよい歩くこのようなイメージの街は東京のなかにある、それが三河島だということである。
そんなことから、彼に誘われるような恰好で、二度だったか三度だったか、三河島の界隈を歩いて写真を撮ったことがある。その年の9月に『早慶写真展』があり、私の記憶に間違いがなければ、彼が三河島で撮影した作品は『異邦』と題した早い早稲田田大学写真部による共同制作の中核の一つになった
私が三河島のどこをどう歩いたか、また私自身がなにを撮ったのかは、はっきりしない。馬鹿なことをしたと思うが、大学を卒業したとき、それまでのフィルムとプリントは残らず焼いてしまったからである。
三河島は荒川区の中部を指す旧地名だが、JR常磐線三河島駅付近一帯の通称にもなっている。二度目に三河島を訪れたのは1985年の『昭和二十年東京地図』のときだった。編集と取材は西井一夫。『カメラ毎日』の最後をつとめた編集長で、同誌が休刊になったあと、『毎日グラフ』編集部に転属したばかりだった。
西井が自分の眼で確かめようとしたのは都営三河島アパート。彼が畏敬してやまない写真作家が荒木経惟だった。荒木の出世作となった『さっちん』は、1963年から1964年にかけてこのアパートに足を運び、奔放に遊ぶ子どもたちの姿を切りとった作品集である。
都営三河島アパート(府営三河島アパートメント)の竣工は1932年である。後述するように、ここは不良住宅として悪名の高かった千戸長屋のあった場所である。築50年以上の建造物だから、老朽化していたということかもしれない。コの字型にならぶ鉄筋コンクリート三階建の6棟はすでに取り壊され、都営荒川七丁目仲道アパートに建て替わっていた。
荒木経惟の写真作家としての才能を最初に発見したのは桑原甲子雄である。桑原は写真雑誌の編集長をいくつも歴任するかたわら、写真評論家として筆を振るった人だが、そのころは『カメラ芸術』(東京中日新聞社)の編集長をつとめていた。いっぽう、荒木は、電通の写真室に勤めながら、あちこちの写真雑誌で「月例(写真)の賞金稼ぎ」をしていた。「二重応募もへっちゃら」だったというから、簡単にいえば、アマチュア写真界のやんちゃものだったのである。
その荒木が『カメラ芸術』の月例写真に作品を持ち込んだ。すると編集長の桑原は写真をみるなり、あちこちの「写真雑誌にパラパラ出」すのはやめて、「この子どもの写真、うちでまとめて、発表してみないか」と口説いた。そして、作品は『カメラ芸術』1964年4月号に『マー坊』のタイトルで口絵8ページをつかって掲載された。『さっちん』は『マー坊』を再構成したもので、第一回太陽賞の発表があったのはその年の6月だった。
桑原甲子雄が荒木の写真にこだわったのは、写真表現の評価とは別に、もう一つ理由があったとみられる。というのも、桑原はアマチュア写真家時代の1935年から1937年にかけて三河島と町屋を何度か訪れて写真に撮っている。
『私的昭和史 桑原甲子雄写真集』上下巻(毎日新聞社、2013)は写真家の伊藤愼一と私が編集したものである。上巻には三河島と町屋の写真9カットを収録しているが、そのうちの8カットは子どもを中心にした街頭スナップである。桑原自身はこの一連の作品を「三河島・町屋こどもシリーズ」と呼んでいた。おそらく、三河島アパートで撮影した作品を持ち込んできた荒木経惟に、自分の若き日の姿を重ね合わせたに違いないのである。
「三河島・町屋こどもシリーズ」の1カットがこれである。撮影は1937年で、場所は三河島町7丁目(現在の荒川7丁目)。画面手前に半纏をまとった髭の男と学生服の男の子がいる。二人ともカメラ目線である。怪訝な表情をしているのは、桑原がいつもの着流しの格好でやってきて、懐からライカを取りだしたからだろう。写真を撮られるのを嫌がっているわけでもない。撮る者と撮られる者の関係が揺れ動いている。街頭スナップの微妙な瞬間といってもいい。
男の右側に幟のついた箱があり、その正面に描かれているのはお伽噺の桃太郎の鬼退治である。男の子が手にしているのはおしゃぶりコンブだろう。すると、半纏の男は紙芝居屋か、そうでなければ飴屋なのである。
紙芝居は子供相手の飴売行商の手段として盛んになった。この形式の紙芝居の歴史は意外に浅く、1930年ごろに考案されたものだという(註9)。つまり、紙芝居は銀座通りを歩くモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)とほぼ同時代の新しい風俗なのである。
紙芝居を演じるのは橋の上である。横に大八車が置かれ、欄干には蒲団らしきものを干している。橋が架かるのは藍染川で、谷田川とも呼ばれた(以下略)。