随筆集

2024年12月23日

「フェアネス」を貫いた記者と検事の物語――高尾義彦記者と堀田力元特捜検事

村山 治(元毎日新聞→朝日新聞)

画像
高尾義彦さん
画像
堀田 力さん

 ロッキード事件の捜査や報道に深くかかった「生き証人」が相次いで亡くなった。

 1976年7月、田中角栄元首相が逮捕された当日の毎日新聞1面トップで前打ち記事を書き、同日朝の元首相の出頭写真を自ら撮影した元毎日新聞記者の高尾義彦さん(24年11月12日死去、79歳)と、特捜検事としてロッキード事件の米国捜査や国内での公判を担当し、退官後には「公益財団法人さわやか福祉財団」(東京都港区)を創設した弁護士の堀田力さん(同月24日死去、90歳)である。

 ともに、「フェアネス(公正・公平)」の精神を貫いた良識の常識人であり、筆者にとってロッキード事件取材などを通してその大切さを教えていただいた恩人だった。

■「捜査の神様」に食い込んでいた高尾さん

 高尾さんは筆者より5歳上、毎日新聞入社は4期上の同郷(徳島県)の先輩。80年代半ばに筆者が毎日新聞東京社会部で検察や裁判所を担当した時の司法記者クラブキャップだった。社会部遊軍で調査報道を担当したときには、デスクとして証券大手の損失補填事件などの原稿をみていただいた。

 大阪社会部育ちで関西の事件の取材経験しかない筆者にとって、元首相への強制捜査を前打ちし、その後も粘り強い取材と整理能力を高く評価されていた高尾さんは仰ぎ見る存在だった。

 高尾さんは、東京地検特捜部副部長としてロッキード捜査を取り仕切り、検察内外で「捜査の神様」といわれていた吉永祐介さんに深く食い込んでいた。検察担当を外れた後も、吉永さんが検察内で「窓際」に追いやられた時期を含め毎年、吉永宅で元旦を迎えられていた。

 そういう事件記者でありながら、猛者ぞろいの当時の社会部では珍しく物静かな人だった。「輝かしい実績」を自ら語ることはなく、たまに下手なダジャレを言うときも、自らの頬を赤めるようなシャイな人だった。

■文章の師匠

 筆者の日常の検察、裁判所取材で注文がついた記憶はまったくない。ただ、文章を書くこと、つまり「綴り方」では教えられるところが多かった。

 当時、毎日の司法記者クラブでは、裁判担当記者が月刊の法律誌にアルバイトでコラム原稿を書いていた。私も何本か書いたが、うまく書けない。もともと文才がないうえ、事件の本記と解説記事をいかに正確に書くかで血道を上げてきたためか、本来、心温まるような話でも四角四面の文章になってしまうのだ。

 ところが、高尾さんが手を入れると、あら不思議。こなれて読みやすく、かつ、登場人物の気持ちまで伝わる文章になった。なるほど、文章とはこういう風に書くのか、と大いに参考になった。

 どんな記事にも「記者のナラティブ(物語)」が必要で、それがなければ読者に伝わらない、と筆者なりに理解した。高尾さんのような軽やかで要所を抑えた文章はいまもって書けないが、長文をものするときは「高尾流」をずっと意識してきた。

■ロッキード事件と筆者

 さて、ロッキード事件。特捜検察の金字塔であり、マスコミにとっても調査報道の嚆矢とされてきた。筆者も新聞記事や著作でそのように書いてきた。

 しかし、正直に申し上げると、筆者は事件当時、捜査や関係者の取材は全くしておらず、同事件にかかわる知識のほとんどは、捜査・公判記録や報道の検証によるものだ。その点で、当時、同事件の取材・報道にかかわられ先輩方を前に、ロッキード事件を語るのはたいそう気が引けていることをまずお伝えしておく。

 48年前の摘発時は毎日大阪本社管内の支局の3年生。東京管内の支局の同期生は現場取材に駆り出されたが、「大阪組」には声がかからなかった。

 83年10月の元首相の一審判決後、東京の司法クラブで検察、裁判を担当した時はロッキード公判専従記者がいて、またも取材する機会がなかった。目先の事件や裁判に追われ、高尾キャップからもロッキード事件についてお話をうかがう機会がなかった。

 1991年1月、筆者は故あって毎日新聞を退職。翌2月から朝日新聞に入社し2017年、67歳で退社するまで社会部遊軍や特別報道部で調査報道を担当した。

 ロッキード事件の取材に初めて取り組んだのは朝日へ移籍15年後の2006年。夕刊連載「ニッポン人脈記」シリーズで検察を取り上げたとき。さらに、10年の夕刊連載「検証 昭和報道」で11回にわたってロッキード事件報道の検証を行った。

 高尾さんには前年の09年秋、この報道検証の取材でお世話になった。

■「報道検証」

 自公の麻生政権から野党・民主党への政権交代が確実視されていた09年春、特捜部が小沢一郎民主党代表の資金管理団体の会計責任者の秘書を政治資金規正法違反で摘発。民主党側が「自公政権に忖度した政治捜査」などと特捜部を厳しく批判。そうした中で従来通り、検察捜査を軸に報道を続ける社会部の中立性を疑う声も上がっていた。

 「ロッキード報道検証」は、そういう状況を意識しつつ、国をまたぐ巨大な事件に対して、政治腐敗監視を国民から期待される検察がその使命を適切に果たしたといえるのか。そして報道は、検察が強大な政治権力にひるまず真相解明する尻をたたき、同時に、捜査手法に無理がないかをチェックできたのか、を検証するのが目的だった。

 同時に、特ダネ発掘の思惑もあった。

 筆者は2001年9月の「同時多発テロ」の翌02年に半年間、朝日の研修休暇制度を利用して米・ワシントンD.C.のシンクタンク「CSIS(戦略国際問題研究所)」客員研究員として米国に滞在。その際、ロッキード事件を含む1970年代の日米関係にかかわる米政府の機密指定文書の指定期間が終わり逐次、情報開示が始まったことを知った。

 米政府資料の質の高さは知っていた。「特ダネの宝庫」と直感したが、そのときは資料掘り起こしの時間がなく、「人脈記」取材でも渡米して調査する余裕はなかった。今度こそ本格的に機密文書を発掘したいと考えたのである。

■連載事態は忸怩

 特捜部の捜査と国内の報道検証は筆者が、米国での資料発掘と関係者取材は、09年に筆者と同じ制度を利用して米国・アメリカン大学に短期留学した同僚の奥山俊宏記者(現・上智大教授)が担当した。

 筆者より16歳下の奥山記者は東大で原子炉工学を専攻しながら事件記者を志した変わり種。毎日社会部の大先輩で大学教授になられた天野勝文さんの「教え子」でもある。朝日に移籍した筆者と長い時間、調査報道で苦楽を共にしてきた。

 筆者は、元NHK司法クラブキャップの小俣一平さんの協力で入手した摘発当時の捜査資料をもとに捜査や公判にかかわった特捜幹部や公判担当検事を改めて取材。朝日、毎日、読売の当時の現場記者や編集幹部から話を聞いた。取材は1年がかりとなった。

 朝日以外にまで手を広げたのは、朝日の報道を正確に評価するためには同業他社の記者の意見を聞くことが絶対に必要と考えたからだ。同時に、この機会に、それぞれの社の記者の取材手法や報道文化も深く知りたいとの思惑もあった。

 「報道検証」連載は、2010年1月から2月にかけて、事件発覚、報道競争、検察首脳に対する朝日編集幹部の激励から、田中逮捕、コーチャン独占インタビュー、積み残されたP3C疑惑と順を追って検証した。報道検証としては、さほど新味のない予定調和的なものになってしまったが、米国の機密解除文書には狙い通り、ニュースがあった。

■宝の山

 ロッキード事件発覚直後、自民党幹事長だった中曽根康弘元首相から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書があった。当時の米政権中枢が首相に就任した田中氏を厳しく評価していることを示す資料、ロッキード社以外のメーカーの日本への売り込み工作を示す資料もあった。

 夕刊連載が始まる当日の朝刊1面トップで「『中曽根氏から、もみ消し要請』 ロッキード事件、米に公文書」との記事を打つことができた。

 奥山記者が偉いのは、持ち帰ったダンボール数箱分の英文文書を、日常業務をこなしながら丹念に読み込み、7年後に「秘密解除 ロッキード事件」(岩波書店)を上梓したことだ。「米側の視点から事件に新たな光を当て、調査報道の手本を示した」などとして司馬遼太郎賞と日本記者クラブ賞を受賞した。我がことのように嬉しかった。

 奥山記者は調査報道で内部告発問題を掘り下げ、公益通報者保護法の専門家となった。24年9月には兵庫県知事に対するパワハラ告発問題では県議会の百条委員会で証言。元県民局長(同7月に死亡)の告発文書を兵庫県側が公益通報と扱わず処分を決めた対応が公益通報者保護法に違反するとの見解を表明し大きく報道された。

■高尾さんとの邂逅

 「報道検証」での高尾さんに対する筆者の取材は、2009年9月16日午後4時、皇居のお堀を見下ろすパレスサイドビル5階の毎日新聞役員応接室で取材は行われた。当時、高尾さんは毎日新聞常勤監査役。

 1991年に毎日から朝日に移籍する際、筆者は高尾さんから「行くな」と強く引き留められた。それに応じなかったうえ、図々しくもライバル社の記者として取材に訪れた。嫌みのひとつもあるかと覚悟していたが、高尾さんは昨日別れたばかりのように、にこやかに迎えてくれた。事前に送付した質問項目をもとにわざわざ整理ペーパーまで用意してくれていた。

 事件発覚から元首相摘発、公判までの取材体験を淡々と語ってくれた。「なるほど」「やはり」と腑に落ちることが多かった。

 このときの高尾さんの証言は、2014年6月~15年1月に朝日新聞のニュースサイト「法と経済のジャーナル」で連載した、元NHK司法クラブキャップの小俣一平さん、元朝日新聞司法クラブキャップの松本正さんと私の鼎談「田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と特捜検察 『栄光』の裏側」の中で紹介した(その後、朝日新聞出版で単行本)。

 その一部を要約して引用する。

■特ダネ出頭写真の舞台裏

 76年7月27日田中逮捕当日。その朝早く、検察庁の玄関で縄張りの準備が始まったのを見た高尾さんは「大物被疑者が出頭する」と慌てて司法記者クラブにカメラを取りに行き、元首相の「入り」の写真を撮影した。新聞社としては見事な特ダネ写真だった。

 「アサヒペンタックスの1眼レフだけど、ストロボがなかったのでうまく写っているかどうか不安だった。現像して写っているとわかるまでは冷や冷やだった」

 「田中さんにいきなり行くとは思っていなかった。だから、田中邸には記者を張りつけていなかった。秘書の榎本さんに強制捜査が入るとの情報があったので、榎本さんのところだけは張りつけていた」

 ライバルの朝日の検察担当記者が関係先を回って検察庁舎前に着いた時、すでに元首相は庁舎の中に入った後だった。「階段を駆け上がり、5階の取調室に消える田中さんの背中を確認したが、写真は撮れなかった」とその記者は振り返った。

 NHKや民放はルーティンでカメラを配置していたので「入り」を取れた。といって、元首相をこの日、逮捕するとわかっていたわけではない。この日の田中逮捕を正確に予測していたメディアは1社もなかったと思われる。

 多くの社が、検察が描く事件の構図の中心に田中元首相がいるとにらんでいたが、捜査が及ぶにしても、橋本登美三郎元自民党幹事長ら他の政治家の後と見ていたのだ。

■「田中逮捕」の前打ちは「第六感で」

 76年6月から贈賄側と見立てた全日空、丸紅幹部が次々逮捕され、それぞれに弁護人として有力弁護士がついた。検察担当記者らは、検察のガードが堅いため被疑者取り調べの内容から検察の狙いを探り出そうと被疑者側の弁護士回りに精を出した。

 親切な人がいた。元特捜部長で検察の広報官である東京地検次席検事を務め、検事長まで上り詰めた弁護士は、各社の担当記者に、検察の狙いが、田中元首相、元運輸大臣の橋本登美三郎・元自民党幹事長、佐藤孝行元運輸政務次官らだと教えてくれた。

 それをもとに各社は前打ちを狙った。しかし、毎日以外はできなかった。最大の要因は検察側でその情報をコンファームできなかったからだ。検察はそもそもガードが堅い上、主任検事の吉永副部長が最高検や法務省に情報を上げないためなかなか感触がとれなかった。

 そういう状況で、毎日だけなぜ朝刊での前打ちができたのか。高尾さんはこう答えた。

 「当時は、どの社も、検察から容疑事実や着手のタイミングをきちんとはとれていなかった。(毎日の)あの前打ち記事も、いろんな情報を総合して、この日に重大な動きがあると、半年以上にわたる検察取材から体得した『第六感』のような感覚で判断して打った」

■事件報道は結果が全て

 つまり、7月27日朝刊の記事は、田中逮捕を確信して打ったものではなかったということだ。これには正直、驚いた。相手は政界の大物。誤報になれば、社は訴えられて敗訴するリスクがある。巨額賠償を求められ、報道機関としての信用を失う。書く以上は、何か、根拠になる情報があったに違いないと考えていたからだ。

 とはいえ、「重大決意へ」記事が出た朝、検察は田中元首相を逮捕。世間と記者の多くは毎日の「前打ち」は見事な特ダネだと受け止めた。関西の支局で前打ち記事を見た筆者もそのひとりだった。

 報道は結果がすべて。事件の筋、捜査の動きを完全に把握したつもりで前打ちしても、当局がそれに怒って着手日をずらし、誤報になることもある。各社が着手日と容疑を掴んでも、情報源の検察幹部から前打ちを止められ、出入り禁止の1社の特ダネになることもある。

 元首相逮捕当時の毎日新聞社会部長の牧内節男さんは2010年1月6日、筆者の取材にこう語った。

 「田中逮捕なんて予測していない。していれば、田中邸を張る。検察庁前だってカメラマンもいなかった。予測していたら、外すはずがない。だから高尾君が自分で撮影した。榎本(敏夫、元田中首相の秘書)聴取の情報はあった。張り番はやめろ、といってあった。田中の実名を出して書けるような情報はなかった。あれでよかった。その日に角栄を逮捕したのだから、知ってて書いたと世間は思ってくれる。それでいいんじゃないか」

 なるほど、と得心した。

■リクルート事件で様変わりした検察

 毎日の「第六感での特ダネ」は、裏を返せば、ロッキード事件当時の検察の「保秘」が鉄壁だったゆえに生まれたともいえる。

 その後、検察の取材現場は様変わりする。取材に対する検察の保秘のガードは驚くほど緩くなったのだ。筆者が検察を担当した80年代に徐々にその傾向は見えていたが、一気にガードが下がったのは88~89年のリクルート事件だ。

 特捜幹部が記者の囲みで、政治家名を連想させるたとえ話で政界ルートの摘発を示唆したり、上層部が逮捕発表前に親しい記者にそれを伝えたりするようになった。

 社会部で担当デスクを務めた高尾さんは、「リクルート(事件の時の記事)は検察の誰かがしゃべって書いている。それに驚いた。ロッキードの場合は、その手前のところで……。しゃべってくれる人がいて書けた、ということはほとんどなかった。(それをいうと、ロッキード事件時の検察取材は)ほんとにこれが取材か、ということになっちゃう」と正直に話してくれた。

 この証言にも大いに納得した。高尾さんは、記者として体験した事実をありのまま世に伝えることを自らの使命と感じているようだった。その前には恥も外聞もない。大きな「フェアネス」の精神。「恰好いいな」と感じた。

 ロッキード報道検証取材では、高尾さん、牧内さん以外にも、社会部で取材を取り仕切った澁澤重和さん、司法記者クラブキャップだった山本祐司さんら多数の大先輩から有用な証言や助言をいただいた。

 いずれも、自らの仕事にプライドを持ち、事実に誠実であろうという強い信念を感じた。本当にいい新聞社で育てていただいた、との思いを新たにした。この場を借りて改めてお礼を申し上げる。

■暖かい視線

 筆者は朝日退社後も細々ながら、フリーランスの記者として検察と政治の関係などをテーマに取材・執筆活動を続けている。高尾さんも、同様のテーマで著作や郷里の徳島新聞のコラムなどを書かれてきた。

 検察首脳人事への政治の介入、検察のイリーガル、イレギュラーな捜査手法など新たな素材に出あう度に、高尾さんなら、どう受け止めるか。どういう切り口=ナラティブで記事を書くか、と考えてきた。

 筆者の著作や雑誌での情報発信について直接、言葉をかけられたことはなかったが、常に高尾さんの温かい視線を背中に感じてきた。くしくも高尾さんが亡くなられた11月12日は、筆者の74回目の誕生日。改めて「因縁」を感じた。心からご冥福をお祈りします。

■米大使館幹部宅での出会い

 ロッキード事件の報道検証は当然、報道対象の検察捜査も検証することになる。

 2009年当時、主任検事を務めた吉永祐介さんはすでにご体調の悪化が進み「私の顔もわからない」(高尾さん)状態だった。必然的に、取材は捜査と公判を担当し事件の全貌を知る堀田力さんが中心となった。

 堀田さんは京都府出身。1961年に検事に任官。大阪地検特捜部で大阪タクシー汚職事件の捜査に関わった後、法務省刑事局。在米日本大使館一等書記官を経て76年に特捜部でロッキード事件を担当。日本の政府高官への贈賄工作を行ったロッキード社のコーチャン元副会長の嘱託尋問を担い、田中元首相の逮捕・起訴に結びつけた。特捜部検事、同副部長として元首相の一審公判に立ち会い、検察が有罪を勝ち取る原動力となった。

 法務省官房人事課長、官房長などエリートコースを歩んだが、91年に退官。弁護士登録すると同時に「さわやか福祉推進センター」(現・さわやか福祉財団)を設立。社会保障の充実を訴え、介護保険制度の創設などを国に働きかけた。

 筆者は法務・検察時代の堀田さんと面識はなかった。取材させていただくようになったのは93年夏のある夜、突然、在日米大使館の政治部長から自宅に招かれ、そこで堀田さん、ノンフィクション作家の立花隆さんと4人で、特捜部が摘発中のゼネコン事件について議論したのがきっかけだった。立花さんともそこで初めてお目にかかった。

■ゼネコン捜査の行方を探っていた米大使館

 ドメスティックな事件記者で米大使館関係者はもちろん、外国人の知己もいない筆者に米大使館が声をかけてきたのは、ゼネコン事件での検察の捜査の狙いを探るためだった。

 日本の建設市場の開放を狙っていた米国政府は、米国企業などの参入を阻む最大の障壁が建設業界による談合と睨み、日本政府に独占禁止法の強化改正や積極活用による摘発を強く求めていた。

 米大使館は、特捜部の捜査もそういう文脈の中で日本政府が要請に応えたものではないか、とみていたが、反面、建設談合は日本の政官財の護送船団システムのコアともいえる重層的な利権であり、米側の圧力をかわすための「ガス抜き」の要素もあるのではないかと疑っていた。

 つまり、検察は、米側の考える日本システムの病巣=官製談合や族議員の利権構造にまではメスを入れず、単発的な知事や国会議員の「どぶ板汚職」でお茶を濁すのではないか、危惧していたのだ。

 ワインが進み、全員雄弁になった。堀田さんと立花さんは、日本の政官財構造のあれこれを説明しつつ、検察の自発的な捜査への期待を語った。筆者は大使館政治部長が語る捜査予測に心の中では半ば同意しながら、日本語ペラペラの挑発的な物言いにカチンときて「日本の検察は、法と証拠にもとづき捜査する。ゼネコン事件の端緒は、建設族のボスの脱税事件で押収した経理資料だった。政界中枢や高級官僚が摘発されるかは証拠次第」と検察の代弁者のような話をしてしまった。

■米側の読みは当たった

 若気の至りである。結局、ゼネコン事件は中村喜四郎元建設相を公取委委員長に埼玉の談合組織の告発見送りを働きかけゼネコンから謝礼を受け取ったとするあっせん収賄と茨城、宮城の知事を公共事業の発注をめぐる収賄で摘発したものの、米国側が予想した通り、構造的な官製談合利権にメスは入らないまま終わった。

 後になって、堀田さんと立花さんが当たり障りのない言い方をしたのは、当日の会話が公文書になって米国に送られ、いずれ公開されると知っていたからではないか、と思い至った。おふたりとも、著名人。米国側に日本の国益にかかわるような話をしていたとなると、なんらかの後難があると考えたのかもしれない。

 「報道検証」取材で奥山記者が米国で発掘した米政府の機密解除文書の中には、中国情勢をめぐる日本の著名記者と米大使館員の詳細な会話記録があった。機密指定は、即時に開示されると米国の国益を害すると米政府が判断した情報について行う。その記者は会話が機密指定文書になっているとは知らなかったとみられる。

 筆者の場合は、機密指定に当たるほどの重要な話をしたわけではないので、記録され開示されてもいっこうに構わないが、推測通りだとするとやはり気持ちが悪い。

■米国のフェアネスを信じた堀田さん

 堀田さんには、この会合以来、機会あるごとに取材に応じていただくようになった。立花さんも同様に、気軽にお話をうかがえるようになった。

 10年の「報道検証」取材で堀田さんは、米司法省や米証券取引委員会の捜査、調査資料入手をめぐる折衝、米法廷での嘱託尋問、それに、公判の争点となった捜査の問題点などをざっくばらんに語ってくださった。

 米国が、同盟国の政治リーダーを告発することになる恐れがあり、米国にとっても政治的リスクの大きい資料を提供してくれた理由について堀田さんは、米国の政官界に深く根をおろした「フェアネスの精神」によるものだ、と語った。

 そして、その米国側が作成した資料に全幅の信頼を置き、その資料をもとにした検察の事件の見立てについても絶対の自信を持っていた。

 ただ、総額5億円の賄賂については、4回の授受のうち1回分は怪しいと公判で弁護側に追及され、検察部内の一部でも「あの授受認定は間違った」との見方があった。

 それについて尋ねると、堀田さんは少し困った顔をして「5億円の授受があったことは間違いない。あれは、担当検事が張り切り過ぎて授受の時間、場所、状況を細かく特定しすぎたのが失敗。日時を特定せず、都内で、くらいの調書にしていれば、揉めることはなかった」と苦笑いした。

 結局、田中元首相に対する一、二審判決は検察の主張を全面的に認め懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡した。元首相は上告中の93年12月に死去。公訴棄却となった。

■P3Cアンタッチャブル指令

 「報道検証」取材では一点、引っかかったところがあった。

 ロッキード事件で最大の疑惑とされながら捜査が見送られた対潜哨戒機P3Cの売り込み工作にかかわる点だ。

 堀田さんによると、1976年7月、米裁判所で行われたアーチボルト・コーチャン・ロッキード社副会長に対する嘱託尋問で、コーチャン氏から「ロッキード社には日本政府高官らへの航空機売り込み工作に使う会計口座がトライスターのための民生用とP3Cのための軍用の二つある」という想定外の証言が飛び出した。

 宣誓した上での証言。嘘をつけば処罰される。P3Cの日本への売り込み工作の詳細を追及する絶好のチャンスだった。しかし、堀田さんらはあえて軍用口座について追及するのを見送り、トライスターの売り込みに絞り込んで尋問を続けた。

 筆者が「そのとき、軍用口座についても尋問していれば、P3C疑惑の真相に迫る手掛かりが得られ、新しい捜査展開もあり得たのではないですか」と尋ねると、堀田さんは少し考えて「P3C疑惑を追及できるチャンスだと一瞬思ったが、賄賂の趣旨がトライスター売り込みであることを固めるので必死だった。軍用口座に触れると、供述が拡散する恐れもあった。それで、もういいかな、と思った」と答えた。

 いつも明快な堀田さんにしては少し歯切れが悪いとの印象を持ったが、当時、特捜部は悪戦苦闘の末、丸紅関係者らの供述で5億円の賄賂の趣旨がトライスターだとする証拠を固めつつあった。

 そういう中でP3Cをめぐる疑惑を新たに追及すれば、トライスターへの趣旨があいまいになりかねない状況があった。堀田さんは、そういう捜査技術上、捜査経済上の要素を考慮して、P3Cへの深入りを見送ったのだと受け止めた。ロ事件を取材した先輩記者の多くも同じ見方だった。

 その見立ては14年後の2024年、根本から覆ることになる。堀田さんが筆者らに対し、「P3Cについては尋問するな」と検察上層部から厳命を受けていた、と証言したのだ。

■「P3C関係は聴くな」の指示

 筆者と奥山記者がご高齢になった堀田さんからロッキード事件などについてお話をうかがうべく改めてインタビューをお願いしたのは24年春。脳梗塞で倒れ自宅でリハビリ中の堀田さんとお目にかかったのは5月12日午後、東京・新百合ヶ丘のホテルの喫茶店だった。

 筆者は改めて14年前の嘱託尋問の話を蒸し返した。堀田さんがP3C口座について尋問しなかったことがどうしても腑に落ちなかったからだ。

 このP3C疑惑にかかわる堀田さんの証言の詳細は文藝春秋11月号「カミソリ検事が明かした異常な命令 ロッキード事件捜査」と題する寄稿で記したので、その一部を引用する(一部要約・加筆)。

 もし仮に、ロッキード社のコーチャン元副会長に対する嘱託尋問で、そのとき軍用口座に突っ込んでいたら、と筆者が水を向けると、その先を聞くことなく堀田さんは「そうです」と肯定した。

 筆者が「新しい展開があったかもしれない」と続けると、堀田さんは「いえ、あの」と否定の相づちを返し、それに続けて言った。

 「あれは……、それが唯一の、尋問にあたっての、ま、𠮷永さんからですけど、もっと上のほうから来ておる指示で…」

 直接には堀田さんの上司だった特捜部の𠮷永副部長から降りてきた指示ではあるものの、吉永副部長が考えついたものではなく、「もっと上のほう」が源だというのだ。

 「P3C関係のやつは聴くなという、それが唯一の、尋問について私どもが受けておった命令です」

 これを聞いて筆者は「えっ」と意表を衝かれた。「命令まずありきなんですか」。思わずそう問い返した。すると、堀田さんは「ええ」と肯定する。「そういう制限を受けておりました。だから嘱託尋問のときも、P3Cは聞きませんでした」と明快に言い切った。

■「おかしな命令」と繰り返す堀田さん

 堀田さんは続ける。

 「公判でも、松尾くん(松尾邦弘検事、後に検事総長)がちょっと失敗してP3Cのことを聞いて、叱られてるんですけど、あれも、本省というか𠮷永さんたち法務省、唯一の条件がP3Cには入らないという、それがありましたので、その理由は、それは全然聞かされてませんけども、まぁ、おかしな命令ではありますが、おかしな命令ではありますが」

 堀田さんは「おかしな命令ではありますが」と二度繰り返した。(略)

 「だいたい尋問事項にそういう制限をすること自体が検察の姿勢としてはおかしいと思うんですが、それは政治的な、やはり理由があって、P3Cについて何かあって、それは、当然アメリカは明らかにしたくないでしょうが、日本側も外交上もそこを従わざるを得ないし、アメリカの議会もそこは折れてしまっておる、それぐらいのアメリカの外交上の秘密というか――不当ですけども――それがあるだろうということは、だれでも想像がつくだろうと思うんですが」

 当時、米国にとって、P3Cを日本に購入させることは、自国の安全保障に直結していた。米国本土を標的とする戦略核ミサイルを積んだソ連原潜を監視、哨戒する上で、P3Cが非常に重要な位置を占めていたからだ。

 ロッキード事件のほとぼりの冷めやらない1977年、P3Cの購入を決定。1981~97年最終的に約101機を買い、その代金は1兆円を超えたとみられる。これに対し全日空が73~78年に購入したトライスターは21機。1179億円。トライスターに比べ、P3Cは10倍ほどの大きな取引だった。

■捜査を止めたのは日米の政府高官か

 (略)米政府にとって、トライスターよりもP3Cは、より大きな関心事だったはずだ。トライスターはともかく、P3Cがもし仮に贈収賄事件に巻き込まれ、それによって日本政府の購入に支障が出ると、それは米国の安全保障を害し、かつ、米軍部と深いつながりのあるロッキード社の経営を大きく害する。

 堀田さんの新証言は、日米の両政府のどこか「上のほう」で、しかも、日本の法務・検察を従わせることができるレベル、たとえば、ヘンリー・キッシンジャー国務長官と宮沢喜一外相の間で法務・検察当局上層部を巻き込んで、捜査や公判ではP3Cに触れない、との密約があったのだろう、と推測する根拠となりうる。

 米大使館勤務を通じて日米外交の舞台裏を知り、また特捜検事としてロッキード事件捜査・公判の中核を担った堀田さんがここまで語ったことに筆者は驚いたが、やはり、と腑に落ちるものもあった。(以上、引用)

■証言は「フェアネス」の精神の発露?

 なぜ、堀田さんは14年経って筆者らに「P3Cアンタッチャブル指令」を証言してくれたのか。筆者は、堀田さんの「フェアネス」の精神の発露だったのではないか、と考えている。

 堀田さんは退官後の1999年に自らの体験をつづった『壁を破って進め―私記ロッキード事件』(講談社)を上梓した。国境を超えて正義を実現しようとした日米司法関係者らの舞台裏のエピソードや交渉の実態も生々しく描かれ、資料的価値も高かった。

 ところが、堀田さんの直系とみられていた検察首脳のひとりが筆者に「検事は職務上知り得た秘密は墓場まで持っていくものだ」などと苦々しい表情で堀田さんを批判した。

 かつての検察には、事件を捜査した検事らは死ぬまで公判で開示された以外の捜査内容は語らないという不文律があった。それを破るのは個人の売名であり、検察組織全体の評判を落とすことにつながる、とその首脳は考えたのだ。

 その話をすると、堀田さんは「大半の情報は公判で明らかになっているし、公判に出ていない話も国家機密ではない。外交上の問題もあったが時間もたった。なぜ問題なのか?」と首をかしげた。

 捜査情報といえども、政府が権限と税金を使って作成した情報は国民のものであり、プライバシーなど人権に配慮しつつも原則、開示すべき、というのが民主主義国の標準的な考え方だ。米国では、それに沿って国益を害する恐れのある情報、例えば外交機密などは政府が機密指定して保管し一定時間がすぎてから公開する。そして、このルールは米国流の「フェアネス」と表裏の関係にもある。

 堀田さんは後輩の首脳を思いやって正面からの反論はしなかったが、筆者は、堀田さんが「壁を破って…」を著したのは、米国の情報ルールとフェアネスの精神にならい、摘発から23年がたったロッキード事件について開示のタイミングが来たと判断したからに違いないと推測した。

 そして、今回、24年の「P3Cアンタッチャブル指令」証言は「壁で破って…」でも明らかにしなかった「秘密」だった。堀田さんは、自らの死期を悟り、これだけは言い残さなければならないと考え、語っていただいたのではないかと筆者は受け止めている。

 余談ながら、インタビューでは、堀田さんと立花隆さんとの出会いやロッキード事件での「共闘関係」についても聞いた。

 堀田さんは「おふたかた(筆者と奥山記者)について、失礼な言い方ですが、私は信頼しておりますので、何でも聞かれればありのままに答えようと思ってるんで、やっぱり立花さんぐらい突っ込んでしっかり記事書いてくれたらうれしいなという気がありますし、(中略)やっぱり報道する以上は事実でなきゃいけないし、それには皆さん方のようなそういう強い姿勢が、生意気ですけど、報道を読む立場からしても、ずっと、そういう姿勢とってほしいなと願っております」と話してくれた。

 筆者らにとって最高のほめ言葉、記者としての勲章だと受け止めた。

■高尾さんと堀田さんに共通するもの

 堀田さんはその3カ月後の8月9日、体調を崩して入院。その後、退院され自宅療養されていたが、11月24日、帰らぬ人となった。文字通り、5月12日の筆者らのインタビューがロッキード事件に関する最後の情報発信となった。

 高尾義彦さんと堀田力さん。お二人に共通するのは、揺ぎなき「フェアネス」の精神だったと受け止めている。法務・検察という強大な公権力、情報発信で世を動かすマスコミ権力の真っただ中におられたお二人。権力は魔物であり、誘惑も多い。ひとつ間違えば「社会の敵」となり、奈落に転落しかねない。

 そうした中、お二人には、まっすぐ前を見て、フェアネスの精神で行動すれば、途を踏み外すことはない、というゆるぎない信念があったように思う。そして、実践された。

 筆者にとってお二人は見習うべき目標だった。相次ぐご逝去はひとつの時代の終わりを感じさせる。ただ、社会は続く。可能な限り、これからもお二人の志を世に伝えていきたいと思う。