2025年1月14日
阪神大震災から17日で30年―藤田修二さんがFacebookに
80余年の人生で人災を含む大災害を3回経験しました。そのうち命があわやというのは米軍の空襲と阪神大震災でした。長く新聞記者をしましたが、大震災時点では記者ではなく管理部門(大阪本社工程管理センター室長)にいましたので、取材はしていません。ですから以下3回は私的なメモ。
私の住む神戸の人工島・六甲アイランドは当時造成が終わって間なしでまだ空き地が多く、震災後少なくとも数千戸の仮設住宅が造られました。写真上方にあるのがその仮設住宅の一部です。入居者は一人住まいの高齢者が少なからず、既存のマンション住民たちが長きにわたって訪問・買い物などのボランティアをしました。
仮設住宅のさらに上方海岸沿いにあるのは、がれきと化した巨大遊園地。今も更地のままで、ようやく今年グランピングなどの場として仮利用されることになりました。
写真下方にあるのが名門企業が持っていたラグビー場。その企業は震災後経営芳しからず、ラグビー場を売り払って、今はマンションが建っています。ラグビー場の右が私が住んでいる集合住宅。
写真は私の友人のヘリコプターパイロットが仕事の合間に撮ってくれました。新聞社のヘリではありません。念のため。
その②
震災が起きて間もなく新聞社がこんなワッペンというかシールを作りました。
どれくらい作ってどのように配布したのか、覚えていません。車のリアウインドウにでも貼ったかな。妻がこんなのがあったよと言って今年どこかから探し出してきました。
神戸は復興したか。
一つの指標。神戸港のコンテナ取扱個数。震災の前年1994年292万TEU(20㌳で換算したコンテナ個数)2022年289万TEU。
神戸市人口1994年152万人、2023年150万人。
阪神大震災私的メモ③止め
写真は震災1か月後の私が震災3か月前まで住んでいた古いマンションについての読売新聞記事です。能登に比べて再建のスピードが早い印象です。
このマンションは1,2階がつぶれて全壊しました。私は2階に住んでいたので、そのまま住んでいたら危ういところでした。私の後に入居したご夫婦は、たまたま旅行に出かけていて無事でした。
今住んでいる集合住宅は当時ひどい揺れに襲われ、布団の左右から箪笥が倒れてきましたが、箪笥同士が「入」の字に支え合い、私はその下の隙間で怪我もしませんでした。全くの幸運でした。
その後は、電車は動かず、タクシーも見つからないので神戸の人工島から自転車で大阪の新聞社まで行きました。①で書きましたが、当時は取材現場を離れて新聞発行工程全体の管理部門にいたので、神戸で取材せず、大阪に行った次第です。
1か月後帰宅しました。妻はこの間部分損壊の自宅で一人で奮闘していました。
前のマンションは7階建てでしたが、容積率に余裕があったので11階建てで再建されました。入居者の負担も少なかったように聞いています。
藤田修二さんは65入社。77年の新旧分離の際、「編集綱領」に「開かれた新聞」をうたった。67入社・嶌信彦さんは近著『私のジャーナリスト人生』(財界研究所刊)で《「毎日新聞編集綱領」は、毎日新聞の宝だと思う》と書いている。
(堤 哲)