2025年6月16日
「第九」で思い出すのは越後喜一郎さん

6月1日は「第九の日」と、徳島支局長(元大阪本社編集局次長)井上英介さんの「喫水線」にあった(6月14日朝刊)。
《1918(大正7)年6月1日、徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所でドイツ兵の捕虜たちが第九を演奏した。これがアジア初演とされ、市民が毎年この時期に演奏会を開いている》
鳴門市のHPによると、1982年鳴門市文化会館の落成と市政施行35周年を記念して第1回ベートーベン「第九」交響曲演奏会が開催された、とある。
「第九」で思い出すのは、初任地長野支局で薫陶を受けた事件記者・越後喜一郎さん(2010年没、72歳)である。
船橋支局長時代の1982年暮れ、「浦安第九」を創設した。越後さんは浦安市民で、当時の熊川好生市長に持ち掛け、市の事業として予算がついた。越後さん自身、その後、合唱団に加わったことを「記者の目」(1990年12月11日付)に書いている。
《初めてのドイツ語……音階と発音に四苦八苦。とくに難しかったのが595小節から762小節のフーガの部分。音の高低、強弱、発音、呼吸……》
夫人は元SKD(松竹歌劇団)の大幹部。歌も踊りも得意で、合唱のメンバーに早くから加わっていた。
「浦安第九」の注目度をあげるには、どうするか。世界で活躍するプリマドンナ東敦子さん(ソプラノ、1999年没63歳没)に目をつけた。面識もなにもなかった。当たって砕けろの社会部記者精神である。
《とにかく直談判と、都内のホテルのロビーで一時間余。「いいわ。そういう演奏会こそ音楽の原点、出演しましょう」。
以来9年間、多忙なスケジュールを割いて、東さんは毎年暮れ、浦安の第九に出演してくれる》
必ず同伴したのが、メゾソプラノの郡愛子さん。現在日本オペラ協会総監督をつとめ、ことし3月、上野の東京文化会館大ホールでオペラ《静と義経》を総指揮した。
私(堤)は、千葉支局長時代に「浦安第九」との付き合いが始まり、郡愛子さんとはその時知り合ったが、愛子さんの兄は共同通信社会部の塚原政秀さん。68年入社で、渋谷署のサツ回りが一緒だった。不思議な縁である。
◇
越後さんは「強運な男」である。横浜支局時代、事件記者でならし、社会部へ。町田通信部への異動は「左遷」と不満顔だったが、初出場の桜美林高校が夏の甲子園大会で優勝した。
60年ぶりに東京に優勝旗/初出場で校歌を5回も
【甲子園で越後記者】の記事が連日、東京版に掲載された。
仙台支局長時代に、宮城版の連載「生きていくために――腎臓病を考える」がアップジョン医学記事賞(1988年、第7回)を受けた。
国分町の飲み屋のママとその家族が腎臓病の治療で難儀していることを知り、入社3年目の記者に連載を命じた。
編集委員の時は、創刊120周年企画《岩倉使節団の旅を追う「歴史紀行 新・米欧回覧」》の取材で、直木賞作家・古川薫さん(2018年没92歳)に同行、欧米からアフリカまで半年に及んだと、書き残している。
現役最後は、夕刊特集版編集長だった。
「浦安第九」は、その後どうなったかは、知らない。鳴門の板東俘虜収容所での「初の第九」を、越後さんも現地取材して本紙の記事になった、と記憶しているが、毎索の検索でヒットしなかった。署名記事ではなかったからか。
(堤 哲)