随筆集

2025年8月7日

「戦後80年に想う」①
「戦後50年」企画は、戦後48年暮れにスタートした(小川 一 67歳)

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1993年12月30日付1面

 「戦後50年」の思い出から始めます。

 1993年も師走にさしかかろうとしていた頃だと記憶しています。当時、社会部にいた私は年の瀬から始める大型企画取材班の末席にいました。そこへ突然「今回の連載は戦後50年企画にする」と告げられたのです。「えっ、戦後50年? 再来年ですよ!」。びっくり仰天です。

 来年のことを言えば鬼が笑うと言われますが、鬼も笑わない再来年のことを書けというお達しでした。私のような下々の記者に上層部の考えは知り由もありません。ただ、勝手な推測ですが、ライバル社たちはその頃から戦後50年に向けて大掛かりな取材態勢を組みつつあり、それを知った編集幹部が新聞人のサガでもある「前打ち」を敢行したと思われました。

 1993年12月30日、新聞界の先陣を切って毎日新聞の戦後50年企画第一弾「霞が関しんどろーむ」が始まりました。他社はあまりの早い立ちあがりに驚いたようです。ちなみに朝日と読売が戦後50年企画を始めたのは翌年の1994年8月(東京本社紙面)のこと。朝日と読売を「来年のことを言うのか」と鬼たちは大いに笑ったと思います。

 戦後50年の1995年は、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件が起き、どの新聞も落ち着いて戦後50年を振り返ることはできなかったのではないでしょうか。1年以上も前に早々と「前打ち」したのは当時の編集幹部の慧眼でした。

 「戦後60年」の頃、私は編集現場を離れ社長室にいました。読者として紙面を読んでいましたが、担当交番だった藤原健さん(元大阪本社編集局長)の平和への熱い思いに圧倒されたことをよく覚えています。

 「戦後70年」は東京本社編集編成局長として準備にあたりました。

 各本社、各部から様々なアイデアが出され、その多くが記事として発信されましたが、私自身も発案も含めて現場に関わった企画がありました。

 ひとつは総合面の下段で展開したノンフィクション作品の連載です。先輩たちの「前打ち」を踏襲し「戦後70年」の前年の2014年4月から始めました。トップバッターは防衛大学出身の滝野隆浩記者による「出動せず 自衛隊60年の苦悩」。自衛隊の内側からみた戦後史を貴重な証言から描いた33回の連載です。続いて伊藤智永記者の「いま靖国から」。東条英機のひ孫が登場し話題を呼んだ42回の連載でした。その後も各分野から戦後70年ならではのノンフィクション作品が次々と生まれました。

 もうひとつは、戦争体験者の声を広く募り、TBSとタッグを組んで活字と映像で構成した「千の証言」プロジェクトです。人々が大切にしている戦争の「一枚の写真」「思い出の品」「心に残る風景」「忘れられない言葉」を募集すると想像以上の反響がありました。寄せられた声をもとに約600本の記事が生まれ、TBSは特集番組を何度も組みました。寄せられたはがきや貴重な遺品などは「はがきで綴る戦争の記憶―千の証言展」として東京都内3会場で展示しました。担当の砂間裕之記者(現在は取締役)は集まった膨大な証言を3部構成の連載「証言でつづる戦争」に再構成し、いくつもの新事実を掘り起こしながら翌年の2016年9月まで連載を続けました。

 朝日の幹部がある会合で「戦後70年報道は毎日新聞に完敗した」と言ってくれました。今もうれしさが心に残る思い出です。

 つらつらと思い出話を続けてきましたが、昨今の諸状況を見る時、今の現場の記者からは「いい時代をお過ごしでしたね」と嫌みのひとつも言われそうな気がします。切迫した世界情勢の中で「戦後80年」の意義を提起する難しさも痛感します。ただ、若い記者たちに伝えておきたいことは、言葉の力を信じることです。言葉の力で「戦後80年」を描き「戦後90年」を実現してくれることを期待しています。

 小川一さんは、1981年入社。社会部長、編集編成局長、取締役・編集編成担当などを務め、現在は客員編集委員、成城大学講師、日本ファクトチェックセンター運営委員。