2025年11月20日
「戦後80年に想う」⑬
列車に機銃掃射、線路わきの側溝に落ちて(吉川泰雄86歳)
テレビにガザの惨状が映し出された。戦火の中を人々が逃げ回り、食料配布に殺到する大人や子供。爆撃、破壊、混乱。ウクライナでも同じだ。その映像に胸が痛む。ひとつひとつのシーンが80年前の自分の姿と重なるからだ。太平洋戦争末期、日本も同じような状況だった。爆弾や焼夷弾が降り注ぎ、東京は焼き尽くされた。幼い自分が戦火の中を逃げ惑い、食べる物も無く、アワやヒエ、雑草さえも口にして飢えを凌いだ。頭の奥底に閉じ込めていた遠い昔の記憶が蘇ってくる。その光景が今でも私の心を揺さぶるのだ。
当時私は6歳。日本はアメリカと戦争をしていた。開戦以来3年目を迎え、戦況は日増しに悪化,敗戦への道をたどり始めていた。拠点としていた太平洋の島々、東南アジアの都市が次々と陥落、戦火は日本本土に迫っていた。
東京の品川区五反田に生まれ育った私は姉と兄、弟と妹の7人兄弟。父は江戸時代から続く塗装屋の職人。何人かの職人を抱え、塗装業を営んでいた。その父に終戦直前、召集令状が届き戦地に駆り出されていた。
この頃から空襲警報が頻繁に出され、ラジオからは米軍のB29爆撃機の本土接近が報じられていた。夜、警報が出ると灯火管制規則で、地上の明かりが敵機への目標にならないよう電球を布で蔽い、灯りが外に漏れないようにしなければならなかった。母が急いで電球に布を被せシーンと静まり返った暗闇の中、突然シュルシュルと何百何千発もの焼夷弾が空から降ってきた。
焼夷弾は日本の木造家屋を焼き尽くすために開発された日本攻撃用の武器。直径7・5㌢、長さ50・8㌢、重さ2・8㌔の六角形の細長い鉄製の筒に、ゼリー状のガソリンなどの薬剤が詰め込まれていた。それが地上に落ちると爆発炎上し、高温の火炎が地上を這うように広がって、あらゆる物を焼きつくすのだ。B29を捜すサーチライトの輪が夜空を舞い、ボンボンと迎撃の高射砲の音が鳴り響く。が、高度1万㍍で飛来するB29までは届かない。防空壕の隙間から垣間見た、まるで野外ショーのような光景が蘇る。
空襲が続く中の昭和20年4月、私は品川区の御殿山国民学校に入学した。新入生は数人、その他の生徒も殆どいなかった。教室には兵隊さんが常駐。講堂には軍馬がいた。
家族が疎開していた山梨県に向かうため、母と二人で中央線に乗っていた。浅川駅(現高尾駅)を出発して間も無く、いきなり機銃掃射を受けた。飛行機の爆音が聞こえ車輌のすぐ上を米軍の戦闘機が飛び越して行った。タンタンと凄まじい音が続いた。乗り合わせた人々の悲鳴が聞こえた。母と私は車輌の外に逃げ、揃って線路脇の溝に落ちた。私の記憶はここで止まったままだ。
あとで分かった事だが、この列車には当時毎日新聞の論説委員だった森正藏さんが乗っていた。宿直明けで家族が疎開する山梨県に向かっていた。その事を息子の桂さんからの連絡で知った。森桂さんは私の初任地、横浜支局の3年後輩で社会部でも一緒だった。
父の森正藏さんは戦時中、毎日新聞の論陣を張り、社説を担当していた新聞人だった。戦後すぐの社会部長でもあった。モスクワ特派員2年目の昭和11年12月29日から克明な日記をつけ始め、亡くなる前年の27年9月まで毎日書き続けていた。それが42冊の大学ノートに残されていた。
桂さんから送られてきた『挙国の体当たり』(真珠湾攻撃のあった16年12月8日から米戦艦ミズーリ号上の降伏文書調印の20年9月2日迄を掲載)によると、機銃掃射を受けたこの時の列車は新宿発の長野行き下り8両編成、車内は疎開先などに向かう人達で超満員だった。飛行機は硫黄島から飛来した米軍のP51戦闘機4機。死者52人、負傷者133人という惨状だった。終戦10日前の8月5日午後零時40分頃だったという。
日記によると、この列車にはもう一人、西部支社の江口栄治さんも乗っていた。東海道線が不通のため中央線回りで門司へ帰る途中だった。浅川駅で列車の到着を待っていた時に偶然出会ったのだという。列車はなかなか来ず、そのうち空襲警報が出てB29に誘導されたP51の編隊が関東地区に侵入、一部が八王子方面に向かっている事を報じていた。到着した列車は超満員で二人はかろうじて後尾から2両目のデッキに乗り込んだ。発車してすぐ爆音が聞こえた。
混乱の中、二人は咄嗟に逃げ、逸れた。列車は最初に機関部を狙われて機関部が火を噴き、機関士は即死。8両のうち2両がすぐ先の湯の花トンネルに入っていた。もう少し早く発車していれば、難は逃れていた。森さんは列車の右側の山沿いに、江口さんは左側の崖を滑り降りて川沿いに逃げた。森さんはトラックなどに便乗、江口さんは徒歩で小仏峠を越え、約13㌔先の与瀬駅(現相模湖駅)で再会を果たした。泥と汗にまみれた姿でお互いの無事を喜びあった。駅には列車が止まっていて、それが折り返しの名古屋行きとなり、二人はそれに乗車、家族の元に戻った。
江口さんは森さんの後任、戦後2代目の社会部長となった。不思議な縁である。
私が生まれた時、日本は前年から中国との本格的な戦争をしていた。さらに東南アジアの国々を占領、植民地化していた。続くアメリカ、イギリスへの宣戦布告で、戦火は広大な地域に広がっていた。昭和20年8月、日本の無条件降伏で全ての戦争は終わった。軍人、民間人合わせて三百万人の日本人が犠牲になった。
東京への空襲は昭和17年4月18日の第1回から終戦の20年8月15日迄、122回に及び、B29など延べ4870機が爆弾1万1千発と焼夷弾38万発を投下した。死者九万六千人、負傷者七万一千人、焼失または破壊された家屋七七万戸、被災者二八六万二千人。東京全域は昔日の片鱗すら見つけ出すことの出来ない廃墟と化し、その惨状は筆舌に尽くし得ない(警視庁史昭和前編)。
今、世界は混迷の真只中にある。米国の政治力が低下し、力の政治が横行する。分断と対立が深まり、憎悪と諍いが剥き出しになる。それを阻止する手立てを世界は持たない。ガザ、ウクライナはいつ終わるのか。
まもなく師走、私も87歳になる。あの時、あの列車からどう逃げたのか、母に聴く機会を逸してしまった。日本が戦争をした80年前、尊い犠牲があったことだけは、忘れてはなるまい。
◇
吉川泰雄さんは1963年入社。横浜支局から社会部、沖縄復帰、沖縄海洋博を取材。ロッキード事件では取材班の分析キャップ。その後千葉支局長、写真部長、地方部長、編集局次長を経て東京本社代表室長。最後は北海道支社長。

