随筆集

2025年11月27日

浅間山荘事件、牟田泰子さんの思い出

中島 健一郎(68年入社)

 53年前の1972年、日本中の人々の目をテレビに釘付けにした浅間山荘事件で、連合赤軍の人質になった牟田泰子さんが小諸市の老人ホームで2025年11月13日、ひっそりと亡くなった。85歳だった。

 僕は泰子さんに会ったことはない。しかし催涙弾で咳き込み、鼻水をすする泰子さん(当時31歳)の声は、窓越しに沢山聴いた。その内容が「泰子さん救出」の朝刊1面トップ記事になった。

 長野支局から学芸部映画担当を希望していた僕は、その特ダネのせいで東京社会部警視庁記者に引っ張られた。泰子さんの声は僕の人生を事件記者に変えてしまった。運命の声だった。

 だから泰子さんの逝去は、とても感慨深い。心からご冥福を祈ります。

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1972年2月29日付「毎日新聞」1面
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1972年2月29日付社会面見開き紙面

 浅間山荘事件は10日目、鉄球で壁を打ち壊した穴から機動隊員が突入して終わった。

 「人質無事救出」の声に機動隊から歓声が上がる。救急車に乗った泰子さんを追いかけて僕は毎日新聞のジープに飛び乗った。軽井沢病院に着くと正面玄関は機動隊員がずらっと並んで誰1人中に入れない警戒ぶり。各社が「泰子さんの記者会見を開け」と叫んでいる。

 「いくら機動隊に要求しても何の効果もない。彼らは誰も通すな、と命令されているから」と僕は思い、残雪が残るカラ松林の中を踏みしめて病院の裏手に回った。

 機動隊が7人ほど固めている窓があった。「ははあ、あの窓が泰子さん病室だな」と近付いた。

 機動隊員の1人が「あっちに行け」という。「ここは外だ。どこにいるかは僕の勝手だ」と反論する。困った機動隊員は15㍍ほど離れた入口に消えた。

 間もなくして帽子に白線が何本も入った幹部を連れて出てきた。僕の方を指さして何やら喋っている。その時、僕は窓から3㍍ほど離れたところに立っていた。

 多分、幹部は「まあ、構わない。いいんじゃない」と言ったのだろう。それからは僕が窓に耳をつけても何の文句も言わない。3㍍離れていたのは大成功だった。

 「上司の命令に機動隊員は従順だ」と僕はニヤリとした。

 窓にくっ付くほど耳を寄せていると、経年劣化した木製サッシから音が漏れてくる。

 夫の郁男さんが愛犬を連れて病室に入ってくると「チロちゃん」と呼ぶ泰子さんの声。「あなた」と鼻水をすすりながら、お互いの無事を喜び合う様子が伝わってくる。

 その時、精神科医が入室した。郁男さんらを退出させ「泰子さん、辛い記憶を呼び起こすかもしれませんが、医師の私には何でも話してください」という。

 この内容は、僕が最近出した『事件記者 今だから明かせる真相、そして裏話』(アマゾンで販売)に詳しい。だからその繰り返しはやめて、人質になっていた泰子さんが何を思い、どうしていたかを僕の取材から想像も交えて小説にしてみよう。

 きっと泰子さんは天から「勝手ね。でももう私には誰もインタビューできないから、まあ許してあげるわ」と言うだろうと僕は思い、あえて書かせて頂きます。お許しください。

 銃声がだんだん近くで響いた。泰子は「何なの」と不安に感じた。後で名前が分かるのだが、連合赤軍の坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教と弟(16)の5人が長野県警機動隊5人と遭遇し、撃ちあいながら河合楽器の保養所、浅間山荘に侵入してきた。

 愛犬チロを散歩に連れ外出した夫の郁男が銃撃戦に巻き込まれていないか、泰子は心配でたまらなかった。

 泊り客は出払っていて自分1人だった。正面玄関をけ破るように入ってきた男たちは伸び放題の長髪、タオルで覆面し銃を抱え異様だった。身体を長いこと洗っていないせいだろう体臭がすごい。恐怖に声もでない。口に布を押し込まれ縛りあげられた。

 「抵抗しなければ命は奪わない」

 吐きそうになるが泰子はうなずくしかなかった。斜面に立つ浅間山荘は道路に面した正面が1階で、泰子は階段を下った階の2段ベットの部屋の柱に括り付けられた。

 「これからどうなるの」。泰子は縛られた身体の痛みより不安な思いで震えた。

 その時、銃声を聞いた郁男はチロと共に浅間山荘に戻ろうとして包囲のため駆けつけた軽井沢署の警察官に「危ないから行ってはいけない」と止められていた。

 「食べ物はないか」と背の高いリーダーに聞かれた。泰子の猿ぐつわが外された。

 備蓄食糧の保存庫の場所を説明した。

 がつがつ素うどんをむさぼる少年(16歳)を見ていると「こんな若者が」と可哀想に思った。

 やや恐怖は薄らいだが、また2段ベットにつながれた。

 毎日新聞長野支局員の中島健一郎は支局に出勤した途端、いつも穏やかな松永彊次長(デスク)が厳しい顔で「ナカちゃん、軽井沢にすぐ行ってくれ」と言った。

 「小諸通信部から軽井沢駅で髭ぼうぼうの男2人が捕まった。群馬のアジトから逃げた連合赤軍のメンバーとみられると、連絡が入ったんだよ」

 息せき切って長野駅から背広姿のまま中島は信越線に飛び乗った。軽井沢署の前は報道陣の車両で混雑し始めていた。

 間もなくカメラマンの要望に応えて駅で捕まった植垣康博と青砥幹夫が2階の取調室から地下の留置場へ階段を降りてきた。手錠をかけられ両脇を警察官に抱えられ引き回しされる2人は「ウオー」と野獣のような叫び声を発した。

 あたり一面に異臭が漂う。榛名山、迦葉山、妙義山の山岳アジトを着の身着のまま転々としていたため体臭が凄まじい。

 軽井沢駅の売店員がこの匂いを怪しみ、通報したのが逮捕のきっかけだった。

 「レイクニュータウンで銃声」。軽井沢署の拡声器から大きな声の緊急の知らせ。

 丁度、警視庁公安担当の沢畠毅記者が到着し、挨拶していた中島に「毎日新聞の社旗を付けた車に乗って現場に行ってくれ」と無線機を渡された。

 新興の別荘地レイクニュータウンは見に行ったことがあり、中島は詳しい。運転手を案内して時速100㌔以上で飛ばしてもらう。

 浅間山荘の麓に着くと警官に「これ以上行くと撃たれる」と制止される。その状況を無線機で沢畠記者に伝える。「しばらく現場を見張ってくれ」と指示された。日が暮れてくると背広姿の中島は寒さでガタガタ震えた。

 やがて浅間山荘を機動隊が取り囲んだ。

 立て籠った連中は「浅間、立山、富士山、赤城、霧島」と山の名前で呼びあっていた。「盗聴されているかもしれないから本名は言うな」とリーダーが厳命する。

 泰子はそれぞれのコードネームを正確に記憶した。「逃げたり、騒いだりするな」との約束を守ったせいか、腰紐だけで縛り上げられなくなった。

 最初の数日は素うどんだけだったが1日1回、犯人らと素うどんを食べた。「お腹が空いていると、何でも美味しい」と泰子は思った。しかしコーラ1本の日も数日あった。

 「トイレに行かせて下さい」

 我慢も限界だった。か細い声でためらいがちに言う。

 するとあっさりと腰紐を握られてトイレに連れていかれた。

 扉は開けっ放しなので、躊躇していると、「外を向いて立っていてくれました」と泰子は後で精神科医に話した。

 放水、催涙ガス弾、真夜中には射撃音をテープで流す作戦。そして屋根への投石で眠らせない機動隊の作戦が続く。

 泰子は眠ろうとするが、うつらうつらすると、大きな音で目が覚めてしまう。

 リーダー(後で坂口と判明)が泰子さんのバックに入っていた善光寺の御守りを取り出し渡した。

 泰子はそれを首にかけて ベッドに横になった。

 正面玄関の上の部屋の窓から外を見ていた仲間が「テレビカメラが、この窓を撮影している」と叫ぶと、そのカメラマンに照準が絞られた。

 その時、中島は信越放送のカメラマンがしゃがんでテレビカメラを構えている斜面の2㍍ほど上で浅間山荘を見ていた。

 バシッと射撃音がしてカメラマンは前に崩れ倒れた。マスコミ取材陣が付けている防弾チョッキがしゃがむとズレ上がり、睾丸一個が射抜かれた。だが、このカメラマンはその後、結婚して子どもを授かったから睾丸は片方あれば生殖には構わないのだ。

 泰子の親族が犯人の親たちに続いて拡声器で呼びかけた時、「顔だけでもいいから出させて」と頼んだ。だが、拒否された。

 警視庁第2機動隊の内田尚孝隊長(47歳)が狙撃で死亡したことがラジオで伝わった。

 泰子は「人を殺さないで。私を盾にして外に出て下さい」と必死に頼んだ。だが、無表情に首を振られ取り合われなかった。

 内田隊長が土嚢に伏せた機動隊員の中から立ち上がり、隊員たちが突撃するよう指揮棒を振り、前を向いた時、銃声がとどろき、眉間の真ん中を射抜かれた。

 額から血がドバーと吹き出た。「まるで劇画の戦闘シーンのようだ」。

 土嚢から10㍍後ろの毎日新聞の車両から目撃した中島は身体がかっと熱くなり震え、車から転がり出た。

 「隊長、死んじゃいけない」と叫びながら盾に内田隊長を載せて、隊員たちが走ってくる。盾の中は見る見るうちに血の海になった。

 泰子は狙撃の音がするたびに身がすくんだ。内田隊長の他、特科車両隊の高見敏光中隊長(42歳)、人質の身代わりになると山荘に近寄った民間人1人が亡くなり、信越放送のカメラマンを含む27人が負傷し、バリケードの撤去に当たった警察官が撃たれ失明したことなど全貌は分からなかったが凄まじい攻防であることを泰子は身体全体で受け止めていた。

 「なぜ、たった5人で徹底抗戦するの?」

 「まだ若いのに降伏しない理由はなんなんだろう」

 「私には手荒なことをしない。そんなに悪い人とは思えない」

 泰子は自分が巻き込まれた攻防戦が何なのか理解出来ず、苦しんだ。

 平和な山荘管理人の生活が突然、一転した。その自分の運命が理解し難かった。

 中島が東京大学文学部社会学科の4年生の時に医学部から全学に広がった東大紛争。

 アバンギャルドの芸術活動をしていた中島は学生会議で「石を投げるより、花を投げよう。憎しみより愛を」と演説して、全学連や民青の連中を呆れさせた。

 やがて学生運動は全共闘が主導権を握り、1969年の安田講堂事件に至る。機動隊に囲まれ、東大全共闘は逃げ足が早いが、日大全共闘は最後まで安田講堂に立て籠り、逮捕された。この敗北が学生運動の四分五裂を招き、内ゲバ時代を招く。

 その流れの中から1970年代に入って過激派「京浜安保共闘」と共産主義同盟赤軍派は、それぞれ金融機関強盗や銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃と弾薬を入手し、警察は全国24万ヵ所の一斉捜索を行うなど総力をあげて追った。両派は群馬県の山岳地帯に逃げ込み連合赤軍を旗揚げした。

 だが、警察の山狩りが始まり、榛名山、迦葉山、妙義山と山中に放置されて荒れ果てた別荘を連合赤軍は転々とし、追い詰められていった。

 最高幹部の森恒夫や永田洋子は革命戦士になるためと「総括」を命令したが、次第にエスカレートし、仲間をリンチ殺害する悲惨な事態に発展した。

 浅間山荘に立て籠った5人と偵察と食糧の買い出しに出て軽井沢駅で捕まった9人はリンチを恐れて逃げ、警察が手薄と見られた長野県に入り込んだ連中だった。

 浅間山荘に通じる道路以外は切り立った斜面のため要塞のようであったことと、人質の無事救出と連合赤軍の生け捕り方針のため10日間の壮絶な攻防となった。報道のヘリコプターが上空を飛び回ったが、山荘内部の様子や泰子の安否はうかがい知れなかった。

 中島は病室の窓に耳を寄せ、精神科医と泰子の応答を特ダネにしたが、毎日新聞の前線本部の旅館で警視庁キャップ、山崎宗次が「ケンちゃん、悪いけどこの弁当を食べながらもう1度、その窓に行ってくれないか」と言った。

 中島は軽井沢病院の裏手の窓に再び行ったが、もう機動隊の姿はない。

 窓に耳を当てる。何も音がしない。

 ところがしばらくして長野県警家族対策班の警部が病室に入って来た。

 「泰子さん、お願いがあります。あなたは10日間も人質だったから〝あの青年たちは世の中を革命で良くしたいと闘っている。けして悪人ではない。真面目に理想を追求している〟と思っているかもしれないが、それはストックホルムシンドロームなのです」

 「警察は2人も犠牲者を出しました。彼らにも妻や子供がいるのです」

 警部は切々と話した。

 「いずれ泰子さんは記者会見に出ることになるでしょう。その時に〝連合赤軍の青年の主張は立派です。良い青年たちです〟と言われたら警察は立つ瀬がありません。どうかそういう事は言わないで下さい」

 中島は前線本部に戻ると「長野県警家族対策班警部。深夜の泰子さん説得」の記事を朝刊最終版に送稿した。

 3面に囲み記事で掲載された。「警察はそんな情報操作をするんだ」と左翼が証拠として引用するなど反響は大きかった。

 長野県警ではなんで深夜の説得が毎日新聞にスッパ抜かれるんだ、と騒ぎになった。「毎日の記者は白衣を着て病院に潜り込んでいた」

 「病室の天井裏か床下に忍び込んでいた」

 など諸説が乱れ飛んだ。

 まさか窓に耳を寄せていたとは誰も思わない。中島は笑ってしまった。

 泰子さんはストックホルムシンドロームの説明を反芻した。1970年代にスウェーデンの首都ストックホルムで起きた銀行強盗事件で、人質たちが犯人に同情的な態度を示したことから名付けられた症候群だ。

 人質や被害者は自分を脅迫したり、虐待している人に対して共感や愛情を抱く心理現象を指す。

 「確かに自分は犯人たち5人をだんだん憎いと思わなくなった。特に未成年の少年が何だか可哀想と感じていた」と思った。

 それはストックホルムシンドロームだったのかも知れない。しかし、事件の翌月、浅間山荘に設置された殉職警察官の祭壇を夫の郁男と共に訪れると銃撃戦が悪夢のように頭を駆け巡り、めまいで倒れそうだった。

 郁夫と泰子は浅間山荘の管理人を続けると辛いと別の山荘の管理人になった。

 それでも連合赤軍のリンチ犠牲者が12人にのぼり、縛られたまま埋められていたこと、妊婦も殺害されたことを報道で知ると「なんで青年らがそんな狂気にとらわれたか」と暗澹たる気持ちで、心がかきむしられた。

 「忘れたい。思い出したくない」

 でも無理だった。泰子は事件のことは人に語らず、静かに事件関係者の平安を祈って暮らすことにした。

 さて葬儀の後、信濃毎日新聞のインタビューに牟田郁男さん(88歳)は応じた。その内容を要約させてもらう。

 泰子さんは救出された当初、励ましの声が多く寄せられた。だが、記者会見で「うどんが食べたい」、「犬と遊びたい」などと話したことが報じられると一転、批判にさらされた。以後、泰子さんは半世紀近く、事件については口を閉ざした。

 2024年、泰子さんが老人ホームに入るため自宅を離れた時、郁男さんは事件に触れた新聞や雑誌の記事、警察の資料を集めた自身の冊子がなくなっていることに気付いた。

 「私の外出中に泰子が処分したのか」

 郁男さんは泰子さんが抱え続けていた葛藤を垣間見た気がした。

 浅間山荘事件の立て籠り犯5人の内、坂東國男(78歳)だけが日本赤軍のクアラルンプールの米大使館占拠事件で、人質との交換により超法規的措置で国外に逃亡し、裁判が終了していない。ダッカ日航機ハイジャック事件に関与し国際手配されている。

 泰子さんは信毎記者に犯人グループをどう思うか尋ねられると「私は何も言えません」とする一方、「手荒なことや意地悪されたことはない」と繰り返した、という。

 殉職警官2人の遺族に泰子さんと郁男さんは直接会ってお悔やみと感謝の気持ちを伝えたい、と常に願って、警視庁関係者の案内で訪ねようとしたこともあったが、かなわぬまま泰子さんは旅立った。

 2023年まで2人は殉職警官の命日に合わせ、事件現場や顕彰碑「治安の礎」などを訪れ、花を手向けてきた。