2018年10月12日
中村恭一さんを偲ぶ会
「中村は毎日新聞記者、国連広報責任者、大学教授という人生でしたが、記者時代をもっとも誇りに思い、それが自分の原点だと、いつも言っていました。特にロッキード事件取材班の皆さんは素晴らしい方々と尊敬していました」
2018年6月23日に咽頭ガンで逝去した中村恭一さんを偲ぶ会で、妻、公子さんが語った。さらに公子さんは「中村は正義感が強く、不正を看過できないため、いつ辞めることになるかもしれない、と私に言っていた」と恭一さんの覚悟を明かした。それは毎日時代には見られなかった不正がどの組織にもあり、ジャーナリスト精神から不正に立ち向かったからだった。
10月5日、東京国際フォーラム7階の中華料理店「東天紅」で開かれた「中村恭一さんを偲ぶ会」には、公子さん、長女、美奈子さん、次女、加奈子さんをお招きして、当時の社会部長、牧内節男さんらロッキード事件取材班の9人と元サントリー広報部長で、つい先日まで日本ペンクラブの事務局長をしていた吉澤一成さんも参加した。
公子さんのとても面はゆい言葉に「社会部長が良かったからだ」と牧内さんが冗談を飛ばす。優しい微笑みを浮かべた恭一さんの遺影の前で、時には笑ったり、涙ぐんだりの和やかな偲ぶ会が行われた。
恭一さんはいつも穏やかで淡々としていた。けして激することはなかった。だが内に秘めた正義感、ジャーナリスト魂は強固なものだった。
板垣雅夫さんが1978年4月20日に発生した大韓航空機銃撃(ムルマンスク)事件の取材裏話を披露した。乗客乗員269人全員が死亡した1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件の前段のような事件で日本人と韓国人の2人が死亡、13人が重傷を負った。
パリを出発、アンカレッジ経由でソウルに向かう途中、ソ連の北方艦隊が駐留しているコラ半島上空で、領空侵犯をとがめたソ連戦闘機2機に迎撃された。ミサイルは左翼外側のエンジン付近に命中し、飛散した破片が客室の一部も破壊したが、ムルマンスク郊外の凍結した湖に胴体着陸してほとんどの乗客、乗務員は助かった。
板垣さんと恭一さんは帰国した大学生が写真を撮っていたことを外信部からの連絡で突き止め、羽田空港から車に乗せて毎日新聞まで連れてきた。だが大学生はその貴重な特ダネ写真を毎日独占ではなく他社にも提供すると言い張った。
そこで大学生を見事に説得したのが恭一さん。「まるで大学教授のように静かに論理的に二股をかけるのは良くない、人生は一つのことに絞らないと中途半端になるよ、とじゅんじゅんと諭した。それですべてのネガが毎日新聞に提供された。素晴らしい説得力だった」と板垣さん。だが後で分かるのだが共同通信社の写真部長が「うちにも提供するといわれている」と毎日新聞写真部に乗り込んで来たら、ネガを渡してしまい、全国に配信されたため特ダネ写真は幻となってしまった。
「とにかく苦労して写真を確保した外信部や恭ちゃんと僕に何の相談もなく渡すんだから。毎日の写真部長は人が良いので有名だったけどね」。板垣さんはそんな思い出を語り、話は好人物が多い毎日新聞の社風や、写真部どうしのいざという時(撮りそびれた時)の貸し借りまでと発展した。多分、恭一さんも毎日新聞社の温かな雰囲気が大好きで、公子さんによると、転職して何年たってもロッキード事件取材班のOB会があるというと、いつもそわそわして遠くからも駆け付けていたという。
恭一さんは1969年に入社し英文毎日から東京社会部記者として活躍したが、国連の広報官としてもらいがかかり、1983年から東京、ニューヨーク、コソボで国連広報の責任者を務めた。2001年から2013年までは文教大学教授。毎日新聞社には15年弱の在籍だったが、公子さんがいうように一番好きな時代だったようだ。
娘の美奈子さんから「皆様のお話をお聞きし、なぜ軽井沢の旅行(ロッキード班OBの集まり)をあれだけ楽しみにしていたのか理解できました」とのメール。公子さんからも「娘たちも、父親のエピソードを皆様から直接お伺いする初めての貴重な機会になりました」とお礼メールが届いた。
(文責、中島健一郎)