集まりました

2018年11月27日

西山正さんを偲んでサンデー原人の集い

 西山さんを「サンデー原人」と呼ぶのは、先の「毎友会」ホームページに大島幸夫氏が書いた「西山さん追悼録」にある通りである。6月19日、誤嚥性肺炎のため、82歳で亡くなった西山正さんを偲ぶ会が11月10日、神田・神保町のすずらん通りにある揚子江菜館で行われた。集まったのはいうところのサンデー原人。最古参は昭和28年入社の野村勝美さん(88)。続いて山崎レイミさん、川合多喜夫さん、今吉賢一郎さん、大島幸夫さん、沢畠毅さん、築達栄八さん、竹内恒之さん、高橋豊さん、それに小生・遠藤満雄。それから厳密にはサンデー原人ではないが、西山さんと仕事上も私的にもずっと交友のあった元出版写真部・平嶋彰彦氏といった顔ぶれ11人だった。

 最長老の野村さんの音頭でまずは「献杯」から会は始まった。「偲ぶ会」だからそれぞれに西山さんの思い出を語ることが中心になる。幹事役の大島幸夫さんが口火を切った。

 大島さんの思い出―その1

 ・・・・・・西山さんはサンデー毎日にもたくさんの原稿を書いたが、サンデーを離れるとミュージカルの台本を書く、という離れ業もやってのけた。僕はその舞台を見に行ったがなかなか本格的なもので、全くプロの技だった。西山さんはそうした〝余技“を見せるときは面白いペンネームを使っていた。「そうなみ」というもので、逆さに読んだら「みなうそ」というもの。毎日出身の作詞家・丘灯至夫さんは「おしとかお」ということばをひっくり返してペンネームにしたというのは有名だが、西山さんもそれに負けないユーモアあふれるペンネームを使っていた。

 大島さんの思い出―その2

 ・・・・・・サンデー原人たちは仕事が一段落すると、新宿、赤坂など酒の匂いのする街に繰り出していくのが常だった。まず赤坂で飲んで、次に新宿に河岸を変えようとした時のこと。大島さんが赤坂の通りにとまっていた高級外車とトラブルになった。その車の持ち主が〝その筋“のもの。手の早い大島さんはその人物を殴ってしまったのだ。相手もさるもの、喧嘩に強い大島さんも顔にけがをした。二人は巡回中の赤坂署員に逮捕されてしまった。西山さんはこの騒ぎの一部始終を見ていたので「目撃者」ということで警察に同行させられた。警察官は西山さんに質問した。「喧嘩の原因は何ですか」。西山さん答えて曰く。「田中角栄です」。

 西山さんは1960年(昭和35年)の入社。世間は安保改定で揺れ動き、日本中でデモが繰り返されていた時代である。西山さんたち60年組の入社式の日に毎日新聞社(当時の社屋は当然有楽町)に右翼(やくざ)が押しかけてきて輪転機に砂をかけるという事件が発生した。『毎日の3世紀=新聞が見つめた激流130年』下巻によると、事件が起こったのは60年4月2日午前4時過ぎ。暴力団松葉会の組員約20人が新聞社に押しかけ、印刷場に乱入して輪転機に砂をかけ、発煙筒をたいたという事件だった。幸い被害は最小限にとどまって新聞発行は続けられた。西山さんはこの入社式の後、戦時中に疎開していた新潟支局に配属され、赴任した。新聞記者人生のスタートである。それから東京オリンピックの年に本社に上り、サンデー毎日編集部に配属されたのだった。以来、出版局から出たことはなかった。

 山崎レイミさんが、まじめな表情になって話し始めた。

 ・・・・・・自分は新しく創刊される旅の専門誌「旅に出ようよ」(すでに廃刊になっている)の編集長をすることになったが、デスクを誰にするか、自分で選べ、と上から言われたが、私はためらうことなく西山正さんを指名した。

 築達栄八さんも言葉を継いだ。

 ・・・・・・西山さんと二人で出張したことがあった。地方で大火があり、その火事のニュースをサンデーで特集するというはなしだった。締め切りは確かその日のうちだった。ところが現場に近づけない。手前から大渋滞で動けないのだ。ところが西山さんは全く現場を見ないのに確か2ページぐらいの原稿を書かれた。あれには本当にびっくりした。 

 西山さんとはそういう人だった。小生にとっても忘れることのできない人だった。小生は昭和44年(1969年)の10月に入社。支局にはいかずにいきなりサンデー毎日に配属された。その小生の教育係が西山さんだった。どこに行くのも西山さんについていき、原稿も見てもらった。忘れられないのが、翌1970年8月に発生した浜松でのハイジャック事件だった(全日空アカシア便ハイジャック事件)。小生は西山さんについて浜松に飛んだ。事件は奥さんに愛想をつかされた犯人が自暴自棄になって起こしたもので、犯行に使った拳銃は浜松駅のおもちゃ屋で買ったモデルガンだった。事件は間もなく解決したが、西山さんは天竜川の河口近くで生まれ育った犯人の環境を取材しろと指示されて、1日海沿いの村をうろついたことがあった。もちろん家族にも会えないし、近所の人の話も聞けなかった。それでも西山さんはどんなところだったか克明に描写しろといわれた。まさに取材のイロハを教わった。この事件はその後、ハイジャック防止法制定のきっかけになったし、モデルガンの規制も始まった。

 この年は大阪万博の年だった。サンデーでは「万博別冊」を作るというので、西山さんをキャップに小生も後をついて開会式からざっと1か月くらい大阪に行ったことがあった。ここでも西山さんのすごさを目の当たりにした。会場が閉まった夜になると西山さんは次々にパビリオンを訪れ、各国のホステスたちと流ちょうなフランス語で交流する。神様のような憧れの存在だった。

 今回の偲ぶ会のきっかけを作ったのは高橋豊さんだった。

 高橋さんは、西山さんがなくなったことを奥様から直接連絡を受けたのだそうだ。西山さんの長く広い交流の中から、ただ一人だけ連絡を受けた人物である。高橋さんは連絡を受けると、すぐに港区三田の西山邸を訪れ、西山さんの最期を奥様から伺ったという。

 「2時間余り、西山さんの遺骨の前で奥様の思い出話を聞いた。会社では自由そのものの人であったが、家庭人としてはどうだったか。ほとんど家に帰ってこなかったという話だった」と高橋さんからの報告があった。

 名物記者・西山正を偲ぶ催しは3時間近くも続き、みんな雨が降り出したのにも気づかないほどだった。

(遠藤満雄)