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2021年4月26日

「言論人の勇気を教えられた」北村肇さん偲ぶ会 毎日労組OBら追悼

  一昨年12月に逝去した元新聞労連委員長の北村肇さんを追悼し、これからのジャーナリズムを語るイベント「北村肇さんを偲ぶ会」が4月4日、毎日ホール(東京都千代田区)で開かれた。イベントは北村さんが発行人を務めていた「週刊金曜日」と出身の毎日新聞労組と新聞労連がオンラインで開催し、読者や毎日新聞労組のO Bら約70人が参加した。

 偲ぶ会では、冒頭に毎日労組の大久保渉委員長が「北村さんら先輩方が築いてこられた毎日新聞を今後も引き継いでいきたい」と挨拶。続いて、週刊金曜日発行人の植村隆さんが「慰安婦証言の記事が捏造記事だと厳しいバッシングを受け、朝日新聞を辞めて大学に就職したが、攻撃を受けて国内で職を失った。日本のジャーナリズムのほとんどが沈黙する中、週刊金曜日だけが勇気を持って取り上げ、火だるまの私を社長として迎え入れてくれた。北村さんからは言論人としての勇気を教えられた」と述べ、追悼した。

 さらに、南彰前新聞労連委員長が司会を務める座談会シンポジウム「北村肇が遺したもの――これからのジャーナリズムを考える」が催された。片岡伸行さん(記者)▽朴慶南さん(作家・エッセイスト)▽明珍美紀さん(元新聞労連委員長)▽豊秀一(『朝日新聞』編集委員)が登壇し、北村さんが新聞労連委員長として、記者クラブのあり方などの課題に取り組んだジャーナリズムや組合活動の功績を称えた。

 南前委員長は北村さんが委員長時代に組合員とともに発刊した書籍「新聞人の良心宣言」(現代人文社)を紹介。南さんは「多少時間がかかっても記者たちがこれを守ってくれると確信している、そうでないと新聞の死が来てしまう、と書かれている。新聞の死はジャーナリズムの死を意味する。北村さんが遺してくれたものをかみしめ、市民に必要とされるメディアとして、存在することを願いたい」と締めくくった。

 毎日労組関係者の代表として、元毎日新聞編集委員の澤田猛さんは、毎日新聞の再建闘争の頃、社会部の北村さんと静岡支局の澤田さんで、当時の書記長、委員長を都内の喫茶店に呼び出し、執行部の二人を鋭く追及したエピソードを披露。その上で、澤田さんは「北村さんはプロデュースの能力に長けた人だった。最後に会った時、北村さんは『70歳まで働いていたい』と言っていたが、67歳で亡くなられた。沖縄の海に骨が撒かれたが、北村さんが海の底に沈んでいてもらっても困る。今、日本のメディアで、南西諸島で起きていること、自衛隊基地化している馬毛島について考えているところがあるのだろうか。辞めて初めてメディアのいいところ、悪いところが見えてきた。67歳で亡くなった北村さんに生きていてほしかった。彼の死を一人一人考えて、我々の肥やしにしないと、北村さんは浮かばれない」と北村さんの死を悼んだ。続いて、元新聞労連委員長で元朝日新聞編集委員の藤森研さん、週刊金曜日の中島岳志編集委員らが送る言葉を述べた。

 会の最後に主催者挨拶として、新聞労連の吉永磨美委員長が「学生の頃、私が最初に出会った現役の新聞記者が北村さんだった。北村さんの精神は毎日新聞の記者に受け継がれており、赴任した支局で先輩記者から、新聞記者は、たとえ社長から何か言われても、正しいと思うことを正しいと書いていい、と教えられ、これまでそれを信じて仕事をしてきた。北村さんから、サラリーマン記者ではない『新聞人』のあり方を教えられた。私たち自身、語り合いながら、より良いジャーナリズムの発展につなげていきたい」と抱負を述べた。

(新聞労連委員長、吉永磨美)

北村肇さん、早すぎた旅立ちを悼む

 4月4日、毎日新聞労組、新聞労連、週刊金曜日が呼びかけて、毎日ホールで「北村肇さん偲ぶ会」が開かれた。リモート参加が基本だったが、元毎日新聞労組のOBと現役数人は会場に直接足を運んだ。

 北村さんの生前の動画が紹介された後、『北村肇が遺したもの―これからのジャーナリズムを考える』と題したシンポジウムが行われ、故人と親しかった仲間が北村さんの社会変革への信念と行動を語った。

 67歳の旅立ちは早過ぎだ。急ぐことをしない彼がなぜと天に抗議したい気持である。酒はそんなに強くはないが、よく飲んだ。飲むほどに赤ら顔になり、饒舌になる彼のムードが好きだった。議論もした。

 議論したテーマについて二つだけ紹介しよう。ひとつは「市民」と「国民」の使い分けだ。「ボクは国民という言い方は好きじゃない。国民という表現は外国人が含まれず、日本国民のことを指す。在日外国人のことも考えれば、市民という単語を使うべきだ」。ドキリとさせられた。確かに「市民的自由」は、生きているすべての人に当てはまるのだから。

 もう一つは天皇制だ。象徴と言えども天皇制は無くすべきだと思う、という私の意見に対して彼は、「自分も同じ考えだ。天皇の存在はこの国の差別の根源になっている」とも。どこがどう差別の根源なのかについて、深めた議論にはならなかったが、私も直観的に同意を表明した。

 ジャーナリズムに関する議論はたくさんあったが、なかでも「新聞労連ジャーナリスト大賞」の創設は、光っている。新聞労働運動に果たした北村さんの位置は、大住広人さんの下記の「評伝」がズバリだ。

 ジャーナリズムの世界に身を寄せ活躍し、疾風のごとく去った北村肇さん。どうか、ゆっくり休んでください。合掌。 

閉会後神田・三幸園で交流会。前列左から手塚恵美子、澤田猛、水久保文明、小川忠男。戸塚章介、赤川博敏。 後列同、明珍美紀、吉永磨美、亀山久雄(敬称略)

(水久保文明・元毎日新聞労組書記)

新聞労働運動の機関車3人

 新聞労働者の運動で3人指折ると、まず聴涛克己、そして加藤親至、3人目には多士あるとして、北村肇が有力だ。置かれた位置はそれぞれにして、三者三様にまっしぐら、新聞労働運動の歴史に機関車となって鮮烈な記憶を刻み込んでいる。

 聴涛は、理想が明日にも現実になると思い込んだ戦後情況の中で先頭を走った。その虚を権力・企業加担の反理想派に衝かれ、理想の共有を果たせぬままレッド・パージの矢面ともなり退場に至ったが、その志は、いまなお運動の理想として褪せることはない。

 加藤は、権力加担の鬼っ子として発足した新聞労連を正気に戻す流れの中で、仕上げを担った。大手の横暴を宥め、中小の窮地を共有し、内の緩さを外への強さに変え、闘う連合体を定着させた。毎日新聞再建を勝取った成果は、加藤・労連による労連の枠を超えた全勢力の共感なくしてあり得なかった。

 そして北村の時代。国労は潰され、日教組は衰弱し、民間は企業のための合理化によって分断されていた。新聞労連もその毒から逃れられず、顧みて衰退期に入っていた。印刷工程の分離・別会社化を押し込まれ、組織人員の減少と組織体質の脆弱という二重窮地を跳ね返しえなくなっていた。

 現業部門を失った単組は、経営協調に傾きがちとなり、新聞存在の根幹である編集の独立までが危うくなってきた。ここでの乾坤一擲、「新聞人の良心宣言」は奇蹟といっていい。聴涛時代の理想と加藤時代の粘りと、先駆二つながらを薬籠に、一年余の議論と新研活動を軸にした実践を積み上げての実現だった。

 30前後で社会部に来たとき、小柄ながら目キラキラとして、既に存在は小さくなかった。場数とともに、労働組合でも代表委員、執行委員、教宣部長、組織部長、執行委員長、さらに労連委員長と、自ら申し子のごとく実績の場を広げた。

 執行部の心得として据えたのは「一人の組合員も泣かさない」「再建は紙面から」。20世紀の終りに「21世紀がどんな時代であれ、この原点を失わない限り、労働組合も新聞も健在」と確言し遺している。南無

(おおすみひろんど)

=以上2編は、福島清さん編集の「KOMOK」号外から転載しました。