2024年7月26日
広告局で人望を集めた「いっぺいちゃん」、尾島一平さんを偲ぶ会に39人
広告局第3広告部長、西部広告局次長、日本産業映画協議会専務理事などを歴任し、2021年5月に亡くなった尾島一平さん(享年78)を偲ぶ会が5月13日、竹橋パレスサイドビル地下1階のニユートーキョーで開かれました。故人の妻・彰子さんはじめ、娘さん3姉妹(美枝さん、美佐さん、美乃さん)と初孫の小百合さん(美佐さん長女)、大阪や名古屋から駆け付けた同人も含む毎日新聞の現役・OBなど39名が集い、尾島さんの思い出を語り合いました。
2024年5月13日は元上司の尾島一平さんの3年目の命日でした。訃報は、後輩の福田裕一朗君からの電話で知りましたが、闘病生活の話などは聞いていませんから、突然でした。コロナのまん延時期のためご遺族の意向で家族だけで葬儀を済ませたとのことでした。とは言え、お世話になった上司、いや先輩に線香の1本でも手向けたいと奥様からお墓の場所をお聞きし福田君とお墓参りに行ったのが、コロナが5類移行した昨年5月の命日でした。
福田君から来年の命日には「偲ぶ会」をやりましょう、と言われて「やろうよ!」と返事をしましたが、出来るかどうか半信半疑でした。お墓参りに行ってから2週間ほど過ぎた頃に奥様から感謝のお手紙と美味しいクッキーが送られてきました。会社の後輩がお墓参りに来てくれたことがとても嬉しかったようです。尾島一平さんは、父、尾島春海(毎日新聞西部本社記者)、母、久子の4人兄弟の長男で、祖父、尾島静雄(大毎記者)は日満親善使節団の同行記者として新京で溥儀を取材されています。三代に渡り毎日新聞の社員なのです。ご家族も毎日新聞を愛していたのでしょう、奥様の手紙からその気持ちが伝わってきました。
「偲ぶ会」では、福田君が配布する冊子(尾島さんの経歴や現役時代の写真を集めたリーフレット)の作成と会場の準備をやってくれました。私はもっぱら連絡係に徹しました。生前に尾島さんと草野球をやった人達、ゴルフ仲間、マージャン仲間を中心に電話し案内状を郵送しました。なかなか今は電話に出ない人が多く、何度か掛け直して「尾島さんを偲ぶ会の案内です」と話すと、「一平ちゃんのか?連絡をありがとう」と数多くの先輩から言われました。連絡した中で既にお亡くなりなった方が二人おられました。参加したいけど足を折って入院中、重篤な病気で闘病中など、ご家族からの連絡は痛いほど年月の経過を感じずにはいられませんでした。
偲ぶ会の当日は大雨でしたが、大阪から尾島さんの同期、水野弘敏さんが参加、献杯の発声をお願いしました。それからは生前の尾島さんと縁のあった仲間たちが入れ替わりマイクを握り熱く語ってくれました。
「訃報はショックで泣いてしました」「一平さんは本当に良い人で誰にも優しかった」「尾島部長のお陰でサラリーマンを続けることが出来た」「甲子園球児(宮崎大淀高校野球部投手で甲子園に2回出場)の尾島さんの球には太刀打ち出来なかった」などなど。また、広告局同人で元衆議院議長の大島理森氏からは「尾島さんとの広告局野球チームでの出会いとその体験が私の大きな財産として残っています」との手紙が寄せられました。
3姉妹から「私たち家族にとって、父の会社人としての一面を知ることができ、大変貴重な時間となりました。皆さまの温かいお心に触れ感動いたしました。心より御礼申し上げます」との挨拶で会は終了。このように「偲ぶ会」と言うよりも「田舎の学校の同窓会」のような会でした。尾島一平さんの人柄がそうさせたのでしょう。私は明るく誰からも愛されていた尾島さんの部下だったことに幸せを感じています。
(須田 孝司)
出席者は以下の通り(敬称略)
五十嵐隆、石郷岡善則、糸賀靖夫、稲垣雅史、大塚淳弘、大沼泰道、大村勝、角江慶輔、門永達郎、木所達志、久保村俊昭、是石恭次、宍戸迪武、四之宮利人、須田孝治、関玖仁男、円谷英夫、手塚泰彦、中井一人、中島敏夫、永山高明、難波肇、楡原光太郎、濱田正直、福田裕一朗、水野弘敏、三村泰史、村越正、森修策、守屋清志、山﨑弘、吉田豊二、篠原良治、竹内敬康、尾島彰子(奥様)、近藤美枝(長女)、黒田美佐(次女)、小島美乃(三女)、黒田小百合(次女の長女)