2020年1月10日
元選挙・世論センター副部長、濱田重幸さんが『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』(仮題)を執筆中です

「終戦直後 学習院長の日記 『人間宣言』関与 山梨勝之進」。1月6日付け毎日新聞一面に掲載された特ダネ記事=写真=を読んでいて、「山梨の足跡を執筆中の濱田重幸・元毎日新聞記者(71)が入手して調査した」とのくだりに気づいた。岐阜支局次長、社長室MAP商品改革本部委員などを歴任、日本陶芸展運営委員も務めた濱田さんの顔が浮かび、記事の筆者の一人、岸俊光さんを通じて連絡をとったら、近況が届いた。
「現在、極度の腰痛(新聞社時代の過労が原因です)による冷え性に悩まされています。両足の先端に血流が回らず、真夏でも湯たんぽを手放せません。気温が激しく上下する日は終日寝込むことは珍しくありません。外出する際は転倒防止のため杖を突き、リュックに湯たんぽを忍ばせています。さらに認知症の義母を施設から自宅に引き取って介護をしています。老老介護です。介護をする妻の補助のため洗濯や食器洗いを受け持っています。このため、パソコンに向かう時間が十分に取れないのが悩みです。また、2時間以上座ったまま仕事をしていると、腰が痛み出します」
「執筆中のタイトルは『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』(仮題)です。敗戦直後、存続の瀬戸際に立たされた皇室を誰がどのようにして護ったのかを解き明かすのが狙いです。稀にみる戦略家である山梨勝之進さんが明治末から戦後にかけて数々の仕事をした足跡を実話でたどる話でもあります。研究者は誰も気付いてはいません。山梨さんは司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』の主人公のひとり秋山真之提督の愛弟子です。『昭和天皇と明仁皇太子を救ったのは誰か』は『坂の上の雲』の続編に当たると自負しています。文献の裏付けがある話だけを集めました。
よほど歴史に詳しい人でないと山梨さんの名前を聞いてもピンときません。ご本人も自己宣伝はゼロに近い人で、数々の功績も当時の上司がした、と功を譲るタイプの人です。人間宣言も同様で、当時の宮内大臣がしたと語っています。取材を受けても、ご自分の活躍シーンは上手にそらしてしまいます。
『山梨日記』に記されていた儒学者佐藤一斎の「須要有事天之心」「不要有示人之念」の漢詩(「物事はどんなことをする場合でも、すべて(天)に仕えるような気持ちで行うことである。他人の目を意識してはならない」)の内容から見て山梨さんは「天が知っていればよい」と考えていたとみています。
例えば、山梨さんは、海軍の父といわれる山本権兵衛の副官を務め、山本権兵衛内閣の組閣時に事実上の〝総理秘書官〟として活動しました。しかし、そのことを全然PRしていません。大正政変時の話です。海軍関係者も知りません。海軍士官として初めて体験する組閣時の話を誰にも話していないのです。山梨さんが取材を受けたある本に「政友会本部に行った」と1行だけ記されていました。インタビューした記者もそのことの重要性に気付かず、別の話題に移っています。この記述で、濱田は初めて山梨さんが政治活動をしていたのでは、と気付きました。吉田首相の岳父、戦前の重臣牧野伸顕は、山本内閣の組閣時、山本の相談役だったことがその日記から分かります。原敬と山本、牧野らがどんな駆け引きをしたのか。立ち会っている山梨さんが語らない限り、永遠に分かりません。『原敬日記』の記述はあまりありません。
本紙に記された小泉信三さんと山梨さんとの交流については親族の誰も知りませんでした。濱田の調べでは、山梨さんは小泉さんが19歳のとき、慶応義塾大学のときに知り合いました。小泉さんが出場するテニスの試合を新婚の山梨さん夫婦が観戦に行って以来の交際でした。このことのウラを取るのに数年掛かりました。『小泉信三全集』全巻に目を通してもヒントはありませんでした。
山梨さん夫婦はなぜテニスの試合を見に行ったのか。カギは山梨夫人でした。夫人の実父が小泉さんの父親と明治初年以来、交際があり、大蔵省では上司と部下という関係を文献で突き止めました。はかま姿でテニスのラケットを手にする娘時代の夫人の写真を『1億人の昭和史』の中から見つけました。新婚の山梨さん夫婦もテニスをしていたのです。
山梨さんの息子が結婚した際の媒酌人は、小泉さんの義兄松本丞治さん(商工大臣、本紙がスクープした憲法草案・松本試案の作成者)でした。47年4月に小泉さんが東宮御教育参与に選任されたのは、山梨さんが推薦したからです。山梨さんは公職追放される自分の後継者として小泉さんを推したことになります。このことを研究者は誰も指摘せず、小泉信三全集にも記されていません。
日本国憲法成立に山梨さんが関与したとする研究者がいますが、濱田の調べでは裏付けが取れませんでした。状況証拠を集めると、相当疑わしい点がありますが、歴史の闇の中に消えたままになりそうです。
『山梨日記』に記されていたGHQ渉外局長ベーカー准将と同民間情報教育局長ダイクの2人は意外な場面に登場します。2人とも日本側の憲法制定作業の模様を情報収集しているフシがあるのです。
衆議院議員植原悦二郎は今では忘れられた存在ですが、明治43年、英国ロンドン大学大学院のとき、Political Development of Japan(日本の政治的発展)を発表しました。明治以降の日本政治史をつづった書ですが、この中で植原は「天皇はシンボルである」と説明しています。この書は西欧の日本研究者にとって基本文献になっています。
敗戦直後の45年秋ごろ、ベーカー准将は植原に会っています。ダイクは植原と鈴木安蔵(憲法学者、「憲法調査会」の一員)、宮沢俊義ら憲法学者を銀座の料亭に招待して憲法改正の動向を探っています。植原はこのとき、Political Development of Japanをダイクに見せて「天皇はシンボル」と説明したことを自著で明らかにしています。また、首相官邸で開かれた「憲法調査会総会」に参考人として招かれた際、同じことを陳述しています。占領最初期のGHQの幹部の中で一番の切れ者のダイクが、この話をマッカーサーにしたのかどうか、文献がなく分かりません。日本国憲法第1条の「象徴」の言葉は日本人の発案なのかどうか、研究する人も少ないです。
民俗学の柳田國男さんと山梨さんが親友だったと言うと、皆首をかしげるでしょう。21歳、海軍少尉候補生の山梨さんは、23歳の東京帝国大学法科大学生柳田さんと知り合いました。柳田さんの実弟が山梨さんの海軍兵学校の同期だったのです。柳田さんのおいの挙式の際、山梨さんが媒酌人を務めています。
「人間宣言」草案作成の事前準備として、神道に詳しくない山梨さんは、柳田さんのアドバイスを受けたのでは、と仮説を立てて調べてみました。用意周到な山梨さんは、先を読んだ行動をするからです。濱田の推論は、今後発表する論文をお読み下さい。
柳田さんが、神道と日本人の信仰の問題を深く考え始めたのは戦争末期とみられています。戦争の終結前から柳田さんは、なぜ神道に関する研究に拍車をかけたのか。戦争末期、70歳を超えた柳田さんがなぜ「いよいよ働かねばならぬ」と奮い立ったのか。敗戦直後、なぜ寝食を忘れて憑かれたように執筆活動をしたのか。なぜ柳田さんは敗戦を予期したのか。柳田さんの研究者からは、これまで合理的な説明はなされていませんでした。
柳田さんの『炭焼日記』を分析すると、柳田さんは山梨さんに会って「戦争に負ける」と告げられてから、神道研究に邁進したとみられます。柳田さんなりに日本の再建をしようとしたのでしょう。濱田の推論です。
山梨さんが経済に詳しい、ということを裏付ける話があります。27(昭和2)年の金融恐慌の最中、経営危機の川崎造船所(現川崎重工業)を当時、海軍艦政本部長だった山梨さんが救済しました。閣議でいったん救済を決めながら、後日見捨てた川崎造船所を一時的に海軍の〝直営工場〟とすることで倒産から救いました。同造船所に海軍の「臨時艦船建造部」を設置したのです。同造船所は、倒産せず、従業員の解雇数は少なくなり、軍艦はそのまま建造されことになりました。川崎造船所と川崎重工業の社史には、詳しい話は収録されていません。
田中義一内閣が救済を放棄した話を柔軟な発想をした山梨さんが救ったことになります。川崎造船所が仮に倒産したら、大騒動が起きるところでした。神戸市にある川崎造船所の従業員、その家族、出入りの下請け業者、商人などを含めると、同造船所に関係する人々は約20万人に上り、当時の神戸市人口の3分の1を占めていました。
山梨さんは当時の海軍大臣が決めたと、川崎造船所救済の功を譲っています。「人間宣言」とときと同じです。戦後、山梨さんは「臨時艦船建造部」は米国の例をヒントにし、「一石三鳥」だったと発言しています。川崎造船所が持つ潜水艦の製造技術を護る目的もありました。山梨さんの三回忌で、川崎造船所に派遣された機関出身の少将が、山梨さんの〝仕事〟と証言しています。山梨さんが第一次世界大戦時の米国経済に詳しかったことを裏付ける話でもあります。
米国がドイツに宣戦布告したとき、総力戦態勢を取りました。造船会社などを国有化して国の資金を大量に投入したのです。まるで社会主義のようなやり方でした。日本の軍部が航空機製造会社を国有化したのは、戦争末期の45年でした。日本は米国のやり方を全然研究していなかったことになります。残念ながら現在でもこのことを研究する人は少ないです。
海軍の「臨時艦船建造部」は、同様に倒産寸前の大阪市の藤永田(ふじながた)造船所(戦後、三井造船に吸収合併)にも設置されました。駆逐艦の「藤永田」といわれていました。作家谷崎潤一郎の夫人松子は、藤永田造船所の創業者一族です。谷崎の小説『細雪』のモデルとなっています。同造船所建造第一号の駆逐艦の進水式で、娘時代の松子がハンマーで薬玉を割ったことを自著で明らかにしています。
〝軍人外交官〟としての山梨さんの洞察力を示す言葉が残っています。山梨さんは米国の国民性について「矛盾が多い大国(中略)。国民の性格が矛盾しているのです。非常にきれいな品の良いところがあると思うと、ごろつきみたいなところが同時にある」「神様みたいなことを言うかと思うと、野次馬で、非常にごろつきみたいなところが一方にある。両方見ないといけない」(『歴史と名将』)とズバリと記す。禁酒法時代の米国の話です。
米国民は神様なのか。ごろつきなのか。昨今の米国政治の現状をまるで予見したかのような指摘です。上記のことを山梨さんは海上自衛隊のエリート将校に説明していたのです。
さらに中国について山梨さんは「アメリカは日本を相手にせずに支那をかわいがり、支那もまた非常に日本を排斥してアメリカをひいきにし、アメリカは支那にうんと金をつぎこんだ」「ところが、今日のアメリカの最大の敵は支那であり、支那の最大の敵はアメリカである。(中略)これほどの失策というものはない」(『山梨勝之進先生遺芳録』)と19世紀末以来の米国の中国重視外交の失敗の歴史を分析。「支那人は口達者である」「世界の名人である」「(プロパガンダは)支那人というのは、世界一であって、これにかなうものはない」と中国との外交交渉の難しさを説明しています。現代の米国と中国の有り様をこれまた予言しているようです。
最後に「人間宣言」について、『学習院百年史 第3編』に収録された山梨さん自身の言葉を紹介します。敗戦直後の皇室の危機的な状況について、山梨さんは55年9月の学習院中等科回顧座談会でこう語っています。
『私の頭に皇室は大丈夫だな、従って陛下の御身分も皇太子様も大丈夫というような見当が髣髴(ほうふつ)として決まりかけるような気持になるまでは、何がどうなるか判らない。御勅語のあたりからそういう空気になってきて、やっと落ち着いた気分になったのです」
山梨さん流の言い方ですが、「私の頭に」「御勅語」(濱田注:人間宣言のことを指す)という言葉からみて、事実上の関与を認めたのではないか。「皇太子様も大丈夫」の言葉は何を指すのか。人間宣言が皇太子の境遇にどう関係したのかは、46年から座談会があった55年の間、誰も気付いてはいません。45年末当時、皇太子の米国留学は、米国の人質になるのと同じでした。
山梨さんの足跡を追う作業は、上記のようなことの繰り返しです。数十冊の文献を読んでも収穫があるのは数冊です。砂山の中から金の粒を見つけるようなことを繰り返しています。10年近く調査していますが、分からないことだらけです」。
腰痛と介護の苦労を乗り越え、著書の刊行が待たれます。
(高尾 義彦)
【山梨勝之進学習院院長・海軍大将の経歴・人柄】
=文献の裏付けに基づく濱田さんの調査結果です
仙台市の士族の生まれ。同志社の分校・東華学校で米国人宣教師から英語を習う。人力車夫などをしながら海軍兵学校を受験する。1900(明治33)年、軍艦「三笠」回航委員に就任し、1年7月間、英国に滞在する。夏目漱石の訪英時と重なる。日露戦争に従軍し、08(41)年~13(大正2)年の間、海軍省副官兼海軍大臣秘書官と山本権兵衛付属副官を計4年間務める。13年の山本権兵衛内閣組閣時、事実上の〝総理秘書官〟として活動する。第一次世界大戦では、14年、インド洋の英国のシーレーンを独艦の攻撃から護るため英軍司令部に連絡将校として派遣され、「日英海軍の活ける鉄鎖」と報じられた。秋山真之提督の愛弟子で、16年、秋山と共に欧州戦線と米国を7カ月にわたって視察した。
21(大正10)年のワシントン海軍軍縮会議では各国軍人らと水面下で交渉した。「軍人にとってこの軍縮は弾丸をうたない戦争」との言葉を残す。海軍次官時、暗殺の危険にさらされながら、30(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮会議を取りまとめ、「軍政家」といわれた。同会議問題を巡って統帥権干犯問題が起きた。英国から贈られた、サーの称号が付くKBE勲章を所持する。連合艦隊司令長官山本五十六と首相・海相の米内光政は山梨に兄事した。33年、強硬派の圧力で海軍を追われたが、第二次世界大戦中、学習院院長(39~46年)として明仁皇太子と義宮を護り抜いた。
戦後、昭和天皇の地方巡幸の準備に関わり、GHQの圧力で廃止の瀬戸際の学習院を存続させた。学習院編『学習院の百年』は「(山梨の)先見の明と透徹した判断に負う」と評している。公職追放の対象となり、学習院院長退任直後、天皇の命で東宮御教育参与に就任する。海上自衛隊創設に裏面で活動し、軍人恩給復活、「記念艦三笠」の復元などに関与した。52(昭和27)年、天皇と吉田茂首相の依頼で、巣鴨プリズンに収監中のA級戦犯らを慰撫する。56(31)年、天皇の義母、香淳皇后の母親の葬儀の際に葬儀委員長を務めた。64(39)年、常陸宮夫妻が挙式した際、山梨夫妻が皇室の儀式、「三箇夜の餅(みかよのもち)の儀」に加わる。吉田茂元首相に続いて66(41)年、宮中杖(鳩杖)を贈られた。
舎監となった宮城県の学生寮「五城寮」(舎監は51~58年)は、「最後の松下村塾」と評する人もいる。山梨が英米の詩人、古今東西の名将、政治家の講話をするほか、吉田茂首相ら政財学界人が山梨の依頼で時々講演に訪れた。創設期の海上自衛隊幹部学校で89歳までの11年間、各国の戦史などの講話を続けた。海上自衛隊エリートたちの精神的な指導者だった。胸像が同幹部学校、水交会、記念鑑「三笠」に残る。
大正時代以降、山梨さんに接触した人々の山梨評の一部を紹介する。「ウラを喝破」「人間洞察力」「柔軟な思考」「機を見るに敏」「抜け目がない」「政治家」「綿密周到」「深謀遠慮」「数理的頭脳」「智嚢(ちのう)」「記憶力抜群」「先見の明」…。海上自衛隊の歴代トップも同じ感想をもらす。明治以降の陸海軍軍人の伝記・評伝の中で、「ウラを喝破する」というような表現をされる将軍・提督はいない。従来の山梨評と異なる「ウラを喝破」と「抜け目がない」は長谷川清海軍大将が山梨の三回忌で語った評である。
戦後は終始狭い家に住み、清貧な生活を続けた。小柄で温和な外貌のため海軍提督時代、「商事会社の番頭さんみたいに、ものやはらか」と評された。威圧するように肩を張り、猛々しい軍人のイメージとは正反対の人だった。威張り散らすこともなかった。他人の悪口・批評も絶対に言わないのだ。学習院院長時代は、門衛や小使いと間違われた。寮の舎監時代は植木屋と勘違いされた。脳いっ血で入院中の山梨に昭和天皇と皇后は果物を、美智子さまは自ら摘んだチューリップを、常陸宮はスッポンのスープを贈った。亡くなったとき、6畳と4畳半の二間の自宅に安置された柩の周囲は昭和天皇と皇族からの生花で埋まった。葬儀には常陸宮夫妻が弔問した。