元気で〜す

2020年8月24日

第二の人生 思いがけずボランティアに(その1)

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 毎日新聞社を55歳で繰り上げ定年してから、早くもあと数か月で四半世紀25年にもなる。確かに私はもうすぐ80歳になるのだから、当然ではあります。そんなに長い間、一体私は何をしていたのか?

 まず、本社を繰り定(1995年平成7年12月末)後は、すぐにスポーツニッポン新聞社で特別嘱託として働いた。そこでは主に読者調査を思いきりやらせていただいた。いつまで働くという明確な雇用期限はなかったが、ちょうど私が60歳になる直前、スポニチの役員会において嘱託の定年が60歳に決まったとかで、私は60歳の誕生日の前日2000年(平成12年12月末)に退職し、家に入った。

 その後しばらくして、横浜関内の毎日横浜販売センターに呼ばれ、1年半ほどアルバイトとしてパソコンの仕事をしたが、本社から社員が異動してくるからという理由で突然解雇された。

 一時何も仕事がなくて少し不安定な気分だったが、突然池袋に住んでいた次女から電話があって「私、横浜の家で子供を育てたい」と言ってきた。私は娘夫婦と同居するなんて考えてもいなかったが、娘の連れ合いもそれを希望していると聞き、本当に仕方なく承知した。彼らはかねがね東京で子どもを預けて働ける保育園と住まいを探しているが、なかなか見つからないとは聞いていた。しかしこの決定は私を長いこと孫に縛り付ける結果になった。2005年(平成17年)2月に娘は池袋で出産し、産院を退院すると赤ん坊とともに、そのままタクシーで横浜の私の家へ帰ってきてしまった。それ以来娘のファミリーは私のところに居るわけである。その時生まれた孫は現在15歳(高校一年)になり、次に生まれた孫は12歳(六年生)になる。娘のファミリーを引き取ってから3年後に、隣に住んでいた夫の母に介護が必要となったため、私の家に引き取り1年半ほど寝たきりになった母の面倒を見た。同時に隣の母の家に娘のファミリーを転居させはしたが、孫の面倒をみることに変わりはなく、この間私は多忙でしっちゃかめっちゃかの毎日だった。

 上の孫が生まれたころ、横浜では、乳児を認可保育園に入れるのは、定員が少ないので大変難しいと聞いていた。そこで私は、致し方なく、私自身がかつて孫の母親である娘を預けた無認可保育園の園長先生に連絡をとってみたところ、運よく乳児の定員に空きがあるということで、娘の育児休業明けから、生後8か月の孫を入れてもらえることになった。しかしその直後、園長先生から電話があり、話は変って、私にNPO法人の理事長を引き受けてほしいというのである。無認可の保育園を行政から補助がたくさん出る認可園にするためには、経営組織が法人でないと申請することができないとのことなのだ。そこで是非ともNPO法人を立ち上げたいのだが、理事長候補がいなくて困っているという話だった。その時の園長先生の説得の言葉は、今でも忘れない。「理事長は1年に3日出てくださればよいのです」と言ったのである。私はとっさに要するに「お飾り理事長」でよいということかと早飲み込みし、同時に私が仕事を続けられたのは、保育園のお陰なのだから、ちょっとこの際「恩返し」をするかと言った軽い気持ちで引き受けてしまった。しかし今にして思えば、園長先生もちょっと調子良すぎたなと思うが、私もオッチョコチョイの極みで、よく考えて調べもせずに引き受けてしまったと以後反省してもしきれないのである。実際1か月はおろか、1週間に3,4日出勤することはざらで、しかもボランティアなのだから、いろいろ大変な面もあった。

 ここでこの保育園の組織的な成り立ちを説明すると、今より約50年前、地域に保育園がなかったため、必要に迫られたこの地の母親たちが集まって共同で保育園を作ったわけである。役員約10名はボランティアで、人件費はかからず、利益を上げることは目的としていないので、経営目標が厳しいわけではない。しかし行政の補助が少ない無認可園の経営は、保育園職員の人件費を低く抑えなければならず、一方で子ども達に対する保育の質は、認可園より低いものであってはならない。否、むしろこの保育園は、横浜市の中で良い保育をしているとの定評さえある。そんなわけで低賃金の待遇で職員に犠牲を強いてきたことは、否めない。私は最初に保育士の給料が勤続10年でも20万円台と聞いて驚き、なんとかしなくては思ったものである。

 私が理事長を引き受けてからまず最初の仕事は、NPO法人を立ち上げるための定款の作成だった。どのようなものを作るかはわからなかったので、先行している保育園の定款を見せていただいて作成したものを神奈川県のNPO を指導している部署に持参したところ、勝手に作ったことを叱られ、くそみそにケチを付けられた。結局最初からNPOの本部へ相談に行き、所定のマニュアルをもらってそれと同じに作るべきだったようで、私たちが勝手に作ったのは、認めないというわけなのだ。もちろん独自性など出すのはもっての外だった。初めて行政のお役人の融通のなさを知った次第。何度か神奈川県庁(現在は横浜市役所)のNPOを推進している部署へ通った末、私たちのNPO法人が認められたのは、約半年後の2005年(平成17年)11月でした。

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 この当時私たちボランティアが共同経営していた保育園は、京急線井土ヶ谷駅から徒歩8分ほどのところにあって、「トトロの家」と呼ばれたほどおんぼろの平屋で、雨漏りなどに悩まされ、大きな地震がくればひとたまりもないほどの危なっかしい園舎だった。子どもたちは0歳から2歳までが対象で、定員は20名だったが、多い時で16名ほど、少ない時は8名程度になってしまう有様。このような定員の激しい増減が経営不安の大きな要因だったわけです。この保育園は無認可ではありましたが、一応横浜市からは「横浜保育室」という制度に入れられていて、認可園の3分の1ほどの補助をもらっていた。しかし定員が6名以下になるとこの恩典も取り消されてしまうという規定である。無認可園は子どもたちが認可園に入れない場合に保護者が仕方なく入れる受け皿のようなものだから、認可園に子どもたちが入ってしまえば、無認可園のこどもたちは少なくなる。すなわち、4月には、これまで認可園に入れず家に待機していた子どもたちや無認可園に通っていた子どもたちが一斉に認可園に入園する。一時的に待機児童が少なくなるのだ。そのため無認可園に入る子どもは少なくなる。しかし夏に向かいまた保育園に入れない子どもが出てくるので、無認可園の園児も少しずつ増加する。そんなわけで無認可園の定員数維持は非常に難しく、経営不安がつきまとうわけ。したがって無認可園の設備は悪く、しかも保育料は全員一律で認可園よりも高額、保護者の収入によるものではない。そのため無認可園の「売り」と言ったら、保育士の愛情がこもった保育だけなのだ。

 そしてついに、2008年(平成20年)8月の理事会では、翌年の4月時点の園児の人数は6人以上見込めそうもないという結論に達し、翌年3月末で「廃園」にするという決議をするまでに至ってしまった。

 それまで私たちNPO法人は、廃園を考えるまで何もしなかったわけではなく、認可をとれるような園舎を作れる土地や建物を10件以上見て回り、バザーを開いて資金を稼ぐなど、いろいろやってきた。しかし横浜の街中で、なかなかまとまった広さの土地や建物は、帯に短し、たすきに長しで見つからず、あきらめざるを得ませんでした。

 そんなとき9月も末のころ、井土ヶ谷駅近くの高層マンションの一階で、保育園に使える部屋が空くらしいという情報を耳にした。見に行ってみると、そこは少人数の幼児を預かりながら、子供の英語教室などをやっていた所で、ほとんど改築をしなくても保育園として立派に使える部屋(約140平米)だったわけです。

 当初、私たち法人は、その部屋を買うほどの資金はなかったので、賃貸で借りようと思って不動産会社と交渉したが、それは断られてしまった。しかし場所と建物の利便性を考えるとあきらめきれず、ズルズル5か月弱もの間交渉を続けた。不動産会社も相手は私どもだけでなく、他とも交渉をしていたのでしょうが、まとまらなかったらしいのだ。そのうちに当時の不動産不況が幸いし、当初の値段をだんだん下げ、3分の一ほどで何とかなりそうな見込みとなったわけです。私は他の役員に声をかけ、誰かこの物件を買う人がいないか聞いたが、誰も名乗りを上げない。仕方なく私は夫を説得し、私たち夫婦がその部屋を購入して、保育園に園舎として貸そうということになった。

 イチかバチかの賭けだったが、幸い駅近で建物は耐震性があり、近くには子どもたちが遊べる良い公園があるなど、環境も良かったためか、廃園を覚悟したのがウソのように、移転した5月に、開園早々から子どもたちが集まり出しました。その後7年間子どもたちは増加を続け、最高34人にもなった。すぐに認可を申請したかったのだが、認可園としては、多目的トイレが必ず必要などの規定があり、この建物では改築が無理と分かったこと、また一部屋だけ明度が不足しているということで、認可申請は諦めた。そんなわけで経営の形はまだ「横浜保育室」のままの無認可保育園だった。しかし「トトロの家」のころは毎年100万円ずつの赤字が出続けていたのが、移転後は経営が好転し、もっと大きな認可園を目指せるほどの資金の貯えもできたのである。(つづく)

(元販売企画本部・成田 紀子)