2021年2月18日
レッド・パージ70年を書いた大住広人さん(83歳)
このHPの新刊紹介にある『検証 良心の自由 レッド・パージ70年 新聞の罪と居直り―毎日新聞を手始めに―』は、大住広人さん(83歳)の労作である。
1950(昭和25)年7月28日、新聞界でレッド・パージが行われた。「アカ」という理由で、毎日新聞では49人(東京31、大阪18)が退職を通告された。日本放送協会(NHK)119人、朝日新聞104人、読売新聞34人、日本経済新聞20人など49社701人にのぼる。
「新聞界には国家権力の非を糺そうとする意欲さえもが見られないことに、半生を新聞界で過ごした者として忸怩をおぼえたことによる」と執筆の動機を述べている。
毎日新聞では政治部の嶌信正(1912〜1998)がパージにあった。「何故だ」と根拠を尋ねたが、一切ノーコメントだった。元毎日新聞のジャーナリスト嶌信彦(78歳)の父親である。
「解雇後の嶌信正」の117ページに、こんな文章がある。嶌は当時、安井謙参院副議長の秘書だった。
《そんなある日、毎日新聞の若い社会部記者が訪ねてきた。当時、革新都政で名を全国に知られた都知事・美濃部亮吉の再選を翌年に控え、選挙情勢を教えてくれ、という。嶌が副議長の兄(注・安井誠一郎元東京都知事)の秘書もやっていて、かつ美濃部の奥の院として知る人ぞ知る小森武と昵懇であり、しかも、その奥にいる労農派の学者たちにも知己をもつ往年の労農記者と知っての「教えてください」だった。
嶌は、気を許し、知ってることを何でも話した。楽しかった。記者が席を立ったとき、思わず一緒に立ち上り、ちょっとはにかみながら「息子がいま秋田にいる。いつ上がってこれるかわからんが、よろしく頼む」といった。若い記者は「えっ?」といい、年寄りのはにかみもいいもんだ、と思った。嶌の半生にとって、このころが一番、気持ちの上でも優雅だったのかもしれない》
美濃部都知事再選の前年とあるから1970年である。この若い社会部記者は、都庁担当の大住さん、当時33歳。秋田支局の息子は、70年入社の嶌信彦である。
あとはこの本を読んでいただくとして、次の写真を見て下さい。

写真部時代の大住さんである。当時27歳。Yシャツにネクタイ姿は、珍しいのではないか。写真説明に《昭和40年4月3日の日韓条約仮調印に集まったカメラマン》とある。売新聞写真部OBの平井實著『スピグラと駆けた写真記者物語』(グリーンアロー出版社1997年刊)からである。
大住さんはニコンF、後ろのカメラマンはスピグラを持っている。スピグラと35ミリカメラの端境期だった。
大住さんは、この年の8月異動で社会部に配置替えとなる。
送別部会でこういった、と本人が書いている。
《「——無念です。求めて(写真部を)出るんじゃありません。求められて出るのでもありません。だから必ず堂々ときっと帰ってきます。そして写真部の部長をやります」》
社内同人誌『ゆうLUCKペン』第36集(2014年2月発行)にある。毎日新聞入社の経緯も明かしている。
《新聞カメラマンになれると、けっこう本気で思っていた。太鼓判を押してくれたのは、かの三原信一だ》
大住さんは東京都立大学法経学部の4年生。サークルは写真部に入っていた。
三原信一さん(1987年没、84歳)は毎日新聞元社会部長。元陸軍伍長。「ヒットラー、のらくろ、と並んで世界三大伍長のひとり」が自慢?だった。
戦時中、広東から特ダネを連発したと都立大の特別講義で話したのだろう。大住さんはその講座を「広東特電」と書いている。
《「就職はどこだ?」…「おれんとこに来い」と命じられた。おれんとこ、とは「毎日新聞」で、それもカメラマンに、だった》
《写真だって実はいけていた。一九六〇年度の「全日本学生写真コンクール」の受賞者名鑑には、ちゃんと
「入選 全学連 大住広人」
と載っている。「全学連」というのは所属名ではなく作品名だ。ときに六〇安保、これまたちゃんと、時機にあった被写体をものにしていたのである》
《わたしは引かれるままに毎日新聞を受けて、合格し、入社する》
二次試験のあと、三原さんから電話があり「合格」を知らされた、とある。
三原さんは、51歳で社会部長になって丸3年務め、55歳定年。東京本社編集局顧問だった。社内では、相当の実力者だったと思われる。
◇
大住さんの社会部、毎日労組などでのその後の活躍ぶりは説明するまでもないと思う。
「写真部長」就任の話も実際にあったことで、あとは『ゆうLUCKペン』第36集を。情報調査部の書架にあります。検索でこんな写真が出てきたので、貼り付けます。
(堤 哲)
