2022年1月5日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑲ ある新聞記者の歩み18 誰も首相になると思ってなかった中曽根康弘の実像(下)それでも首相になれた秘密とは? 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文はhttps://note.com/smenjo/m/m949966550484
第18回は、中曽根康弘さんを取り上げた後半です。
目次
◇遊説先で記者をたたき起こして・・・
◇「カーライルって知ってるか?」
◇勉強家だが“ドーナツタイプ”
◇聴衆が涙を流す中曽根演説
◇大志と時の運で首相に
◇政治部での4年半を振り返って
◇経済部に戻って気をつけたこと
◇遊説先で記者をたたき起こして・・・
Q.もう少し中曽根さんのことについて教えてください。
選挙になると遊説で各地を回る政治家に同行取材をします。どこの駅だったか、駅長室で列車を待っているとき、寒い時期でストーブに当たりながら僕が経済部出身という事で、経済人の人となりなんかをサシで聞かれたことがあります。それがトップ経済人ではなく、正統派の大手企業の経済界の人たちには嫌われている“政商”、小佐野賢治(国際興業会長)、萩原吉太郎(北海道炭鉱汽船会長)なんて人の評判を聞くんですが、ぼくも会ったことありませんし、答えられなくて困りました。こんなところからも、当時、中曽根さんの経済界での主流派との付き合いが薄かったことを感じ取りましたね。
面白い話があります。私は行かなかったのですが、中曽根さんが北陸地方への遊説に行ったときのことです。毎日の松田喬和君(のち特別編集委員)と、のちに産経の社長・会長になる熊坂隆光記者、日経の常務、テレビ東京メディアネット社長などを歴任した岡崎守恭記者の3人が同行したんです。中曽根さんと同じ旅館で寝ていたところに、夜明け頃、彼らの部屋の障子を開けて中曽根さんが入ってきて「オイ起きろ!大平が死んだ」と言ったというのです。中曽根さんは重要なニュースを自分から記者に漏らすような政治家ではない。さすがにこの時は動揺したんでしょうね。「まだ本社に連絡するなよ」とくぎを刺したといいいますが、3人は中曽根さんが去ったのを確かめて、その頃携帯電話なんてありませんから3人で電話の取り合いになり(笑)、部屋や帳場の電話で本社に連絡、この連絡が政治部の中ではいちばん早かったといいます。この話は同僚の松田君から直接聞きましたが、日経の岡崎守恭記者の「自民党秘史」(講談社現代新書)にも詳しく書いてあります。
注)大平首相は総選挙中の1980(昭和55)年6月12日急死した。70歳。
◇「カーライルって知ってるか?」
Q.中曽根さんのエピソードで印象に残ることはなんですか?
印象に残るのは、特に吉田茂を評価していたことですね。遊説で羽田から飛行機で出かける際、中曽根さんの車に同乗し高速道路を走っていた時のことだったと思います。「吉田茂はすごい人だ。日本の政治家ではじめて衣裳が政治的発信力を持つということを気づいた人だ」と言うのです。吉田茂は白足袋にソフト帽に葉巻がトレードマークでした。そういうように“衣裳”の特徴がはっきりしているほうが漫画家も描きやすいし、政治家として発信力があると言ってました。中曽根さんはぼくに「カーライルって知ってるか」と聞くんです。知らないと答えると、軽蔑したような顔をして「衣裳哲学っていうのがあるんだよ」というわけです。つまり吉田茂はカーライルの「衣裳哲学」を実践しているんだ―と。
あと中曽根さんで思い出すのは、車の中でFEN(駐留軍放送)をよく聴いてましたねえ。実際、ニクソン、フォード大統領の特別補佐官で日本の頭越しに“米中国交回復”の秘密交渉に成功したヘンリー・キッシンジャーなんかとは英語でやりとりできてました。政治家としてはよく勉強しているというイメージでしたね。
◇勉強家だが“ドーナツタイプ”
でも、こういう中で中曽根さんはすごく勉強してました。「いつか首相の座が回ってくるかもしれない」という気持ちがあったんでしょうね。アメリカの国務長官キッシンジャーの論文を原文で読んで評価したり、政治学・安全保障論の保守派の論客だった東大教授・佐藤誠三郎、国際政治学の京大教授・高坂正堯なんていう、当時知識人にも評判の良かった著名で良質な政治学の学者などとの勉強会もやっていたようです。
さらに浅利慶太などという劇団四季を主宰する文化人とも付き合い、自分のウィングを広げようとしていました。カラオケでも当時はやりの歌をうたいましたね。特に「神田川」なんて売れ始めたばかりの、南こうせつ・かぐや姫のフォークを歌ったのが記憶に残っています。だけど〽ただ あなたのやさしが こわかった〽なんて唄われるとゾッとしなかったな―(笑)
Q.中曽根さんって、とっつきにくいとか、つき合いにくいとかいうことは?
それはありました。担当記者で本当に肝胆相照らす関係になる記者なんて、あまりなかったんじゃないかなあ。自分の知性の殻をキチンと持っていて、他人にはそこに入らせない―という面があったと思います。読売新聞のドンの渡辺恒雄さん、朝日の三浦甲子二さん(元テレビ朝日専務)、毎日の小池唯夫さん(のちに毎日新聞社長)なんかはその中に入り込んだ記者だと思うし、尊敬しますね。
以前ぼくは政治家には“ドーナツ”タイプと“あんパン”タイプがあるといいましたが、 中曽根さんは完全にドーナツタイプですね。つまりあんパンは外にはあんこ(人気)がなくて、中に入れば入るほどあんこ、つまり身近な官僚・政治家などに人気がある。福田赳夫首相がその典型。世論的には「なんだあのシミだらけの老人くさいの」といわれる。ドーナツ型は中にはあんこ(人気)がない。つまり身近な人には人気がないけど、外に出ていくほど人気がある政治家。昔の美濃部亮吉都知事がその典型。中曽根さんはホント、東京からはなれて地方などにいくと人気がありましたね。でも霞が関の中央官僚、他派の政治家などには、“キザ”、“スタンドプレー”が多い―と嫌われていましたね。
◇聴衆が涙を流す中曽根演説
Q.衣服哲学に関してですが、中曽根さん自身は何か実践されていたんですか?
それについてはびっくりしたことがあります。テレビのインタビューを受けるとき、慣れないわれわれだったらインタビューアーの方を見て話しますよね。ところが、中曽根さんは始まった瞬間からテレビカメラの真正面を向いて話すんですよ。その変わり身の早さには感心しましたし、驚きました。あとで聞いたことがあります。「どうしてテレビカメラ見てしゃべるんですか?」と。すると劇団四季の浅利慶太さんから指導を受けたというのですね。「インタビューを受ける際は、横向きだと視聴者に訴える力が無いのでカメラを見てしゃべりなさい」と言われたそうです。なるほどねえーと感心しましたよ。
中曽根さんは、政治における言葉の強さをよく知っている人といえるんではないでしょうか。「政治家は演説がうまくなければダメだ」。ボクもお世話になった岩見隆夫さん(故人。元毎日新聞政治部記者、論説委員。コラム「近聞遠見」筆者)もそういうことを書いてましたね。今は演説のうまい政治家っていうのはいるのかなあ。大衆にメリハリきかせて引き込んでいく力というのは、修羅場を経てきて何回もそういう体験を踏んできているということだと思います。
同僚の松田喬和記者のオヤジさんは高崎の出身で五・一五事件とか二・二六事件に関係した戦前の右翼活動家でした。戦後、戦地から帰国した中曽根さんが選挙区内を自転車で回った選挙の時から、応援しているんです。自宅が中曽根さんの選挙事務所と近いところにありました。松田記者の家に行くと、五・一五事件に参加した三上卓(元海軍軍人)の色紙が飾ってあったことを思い出します。中曽根さんに演説の仕方などを伝授したと思います。そういう意味では、松田君は中曽根さんにとっては恩人の息子だから頭があがらない。
◇大志と時の運で首相に
Q.中曽根さんが首相になるのは、佐々木さんが政治部を離れて経済部に戻ってからですね。大蔵省記者クラブに配属されたのが1981(昭和56)年7月で、中曽根内閣成立が翌82年11月と年表にあります。当時、感じたことや、何か思い出すことはありますか?
やはり政治家って野心、言い換えれば“大志”を持つこと、時の運を上手く使う事、この二つがホントに必要と思いました。だって大平さんが倒れて鈴木善幸内閣になって、中曽根さんは、通産相、運輸相や幹事長を経験している派閥の長としてはある意味でありえない、初入閣の新人のポストと見られていた行政管理庁長官になるわけですよ。派閥内部からは「中曽根派をバカにしている。受けるべきではないという」という声が出たことも確かです。でもそれが総理へのスプリングボードになるわけです。そのころ中曽根さんに会うと、「今は行革三昧!政局には興味ないよ!」といって煙に巻いていました。確かに戦後三十年経って制度疲労を起こしていた、国鉄、電電公社などの分割民営化などの戦後最大の行政改革に手を付け、着々と“総理への道”を準備して行くんですね。財界の経団連会長だった土光敏夫さん、旧陸軍の参謀で伊藤忠商事会長の瀬島隆三さんなどを使って、作戦を練り上げ実績を上げていきます。ポスト鈴木首相のNO1にのし上がるんですね。
Q.中曽根さんというと日本で初めて大統領型の総理といわれていますが、振り付けはだれかいるんですか。
その一人は劇団四季の浅利慶太さんだったと思います。世論の動きなどを捉えて浅利慶太さんなどの振り付けで、戦後初の大統領型の首相とイメージを確立していきます。やはり外交関係で世界の首脳と、サシで渡り合うというイメージを作り出したのが大きかったのではないですかね。特に1983年5月のウイリアムズバーグのサミットで、レーガン大統領とサッチャー英国首相の間に割り込んで談笑する写真。世界における日本のポジションを国民に実感させたんではないでしょうか。中曽根さんがそれまで培ってきた英語力でできたことで、今までのFEN放送を聞いてきた勉強が実った瞬間だったと思いましたね。
そして側近の官房長官に内務官僚の5年先輩の後藤田正晴氏を起用した。政治的にはこの起用が成功の一番の理由ではないかと思いますね。靖国神社参拝、防衛費の予算の1%突破など、タカ派のイメージの強い中曽根さんとしては、1980~88年のイラン・イラク戦争での海上封鎖に自衛隊の派遣を、米軍から要請されたことに対し前向きだったと思います。しかしタカ派ともハト派とも言われた後藤田官房長官は、自らの台湾での5年間の陸軍士官としての植民地・戦争体験を踏まえて「憲法9条のもと、海外の紛争地帯に自衛隊は送れない」と中曾根さんをいさめてやめさせた。この辺の緩急自在な手法が5年間の長期政権につながったのではないでしょうかね。
◇政治部での4年半を振り返って
Q.経済部記者から政治部に行かれて後悔はありませんでしたか?
それは全然ありませんね。むしろ記者人生の幅を広げてくれたことに感謝しています。ただ経済部における当方のライフワークになった、エネルギー問題のようなテーマを持てなかったことは、後悔が残りますね。政治部が当時党内少数派だった三木内閣誕生(1974(昭和49)年)の政局の裏面を描いた「政変」、岩見隆夫デスクが中心となってまとめられたもので、レベルが高いものだったと思います。岩見さんはこの連載で政治記者としてのポジションを不動なものにしたと思います。
ただ安保問題―日米安全保障問題はキチンとやりたかったですね。ぼくが経済部に戻る寸前の5月に、「ライシャワー元大使の核持ち込み報道」で政治部は新聞協会賞をもらう大スクープを出しました。これは後に社長になる斎藤明さんがキャップになり、「安保と非核-灰色の領域」という長期企画の中で生まれたものでした。
日米安保問題は今もって日本のビビットな問題で、米・中・露・韓と渡り合わなくてはならない日本の基本問題をキチンと押さえられなかったのは今もって残念だったと思います。当時、何となく僕も憧れて「安保問題を理解するには、英語が出来なくては・・・」と思い込んで、女房の知り合いの吉祥寺の成蹊学園前のカトリック女子修道院「ナミュール・ノートルダム修道院」の、アメリカ・ボストン出身のシスター・マリーに英語を毎週土曜日、習いに行っていました。でもモノになりませんでしたね(笑)。
◇経済部に戻って気をつけたこと(略)