2022年1月31日
元中部本社代表・佐々木宏人さん⑳ ある新聞記者の歩み19 数字相手の仕事ながら、ハチャメチャな先輩やら少年自衛官出身の型破りな後輩やらに囲まれて 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文 MENJO,Satoshi
4年半の政治部生活を終えた佐々木さんは大蔵省配属となります。現在の財務省です。強烈な個性の先輩・後輩に囲まれてけっこうおもしろい日々だったと言います。
目次
◇政治部にいても先は明るくないよと言われ・・・
◇ハチャメチャながらユニークな発想のキャップのもとで
◇少年自衛官出身など若手もユニーク揃い
◇ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代
◇財政が厳しくなる時期、親しみやすい大蔵大臣ミッチー
◇グリーンカード構想の登場と挫折
◇政治部にいても先は明るくないよと言われ・・・
Q.1981(昭和56)年に経済部に戻って大蔵省記者クラブに所属ですね。
古巣に戻ってホッとしたというのが、正直な感想かな。経済部長がその時、東京の新聞業界の経済部関係では有名だった歌川令三さん、とくに兜町関係では野村證券の社長、会長をやった田淵節也さんなんかにはすごく食い込んでいました。いずれ、社長になるとも言われていました。その後、編集局長にもなり取締役だった時、当時の政治部出身の社長に辞表をたたきつけて辞めた人です。
その後、リクルート事件で名前が挙がり、週刊紙などで追い回されたりします。辞めた後、中曽根元首相の世界平和研究所主任研究員をへて、日本財団で常務理事までやります。コロナ渦までは3ヶ月に1度ぐらい虎ノ門で昔の仲間、数人で飲み会をやっていました。僕は割とこの人が好きで、原稿がシャープで尊敬していました。社内では歌川さんと仲の良いグループのことを“歌川派”と密かに呼ばれていました。当方もそのメンバーの一人と目されていました。
通常は政治部と経済部の交換人事は1、2年なんですが、僕の4年半もいるというのはかなり異例で、歌川部長にある時呼ばれて「オマエどうするんだ。政治部にはオマエと40年入社同期の優秀な人材が三人はいる。部長の目はないな。経済部は40年入社は、キミ一人。黙っていても部長になれるぞ!」と。そう言われると戻らざるを得ませんよね(笑)。
◇ハチャメチャながらユニークな発想のキャップのもとで
それとちょうど財研(財政研究会-大蔵省記者クラブの通称)のキャップが寺村荘治さんといって、歌川さんの後任でワシントンの特派員から帰って来たばかりのハチャメチャの記者でしたから、本当に伸び伸び仕事が出来ました。前に私がイギリスに語学留学した際、帰りに彼のワシントンの家に寄った話をしましたよね。郊外の湖の脇の大邸宅にいて「この池はオレの家のもののようなもんだからボートは自由に乗っていいよ」、「米政府の高官を呼んでパーティーをするのにこのくらいの家でないと、日本の沽券にかかわる」と。
とにかくスケールの大きな人でした。事実、東郷文彦駐米大使が1980年帰任の際、各社のワシントン特派員が集い、この寺村邸で送別会をやってくれたという思い出の記を東郷さんが残されているようです。これを読んだ日経の福田番を政治部で一緒にやった伊奈久喜記者が、20年後にワシントン特派員になるのですが、「大使の送別会を記者の自宅でやるなんて、今ではありえない」と日本記者クラブの会報に記しています。
「(こんな大豪邸、事実上の倒産をした)毎日新聞の給料で良くできますね」、恐る恐る聞くと「なに、銀行から借りるときは借りないと・・・。」と笑い飛ばしていました。おやじさんは戦前、毎日新聞のベルリン特派員だった人です。でも財研キャップ在任中、当時、博報堂の社長だった近藤道生(元国税庁長官)さんにアッという間にスカウトされ、ビジネス界に転身、毎日を辞めて米国の同社の米政府との橋渡し役のような存在になり、ワシントンに戻りました。
日本に帰り熱海の高台に別荘を作り、新築披露の時に招待されましたが、富士山、初島、伊豆大島を一望に見渡す凄いところです。熱海の山崩れ事故の時、あの別荘のこと思い出しましたよ。その時も「この別荘スゴイですね、高かったでしょう」と聞くと、「なに、購入費は銀行から借りたんだ」とケロッとしてました。その半年後かな、その別荘で大動脈解離で大量出血して、突然亡くなりました。僕が中部本社代表の頃(1998年~2000年)で、熱海の家に弔問に駆け付けましたが、60才に届いていなかったんじゃないかなあ。
Q.ハチャメチャってどんな感じなんですか?
とにかく抜かれても文句は言わない。デスクからの問い合わせにも、「抜かれたのは俺の責任」と部下の記者をかばってくれる。他社がベタ記事で書いているのを、経済面トップ、一面記事に仕上げると「よくやった!」ほめてくれました。そうなると頑張るんですよね。夜回りもどんどんするし、一面トップの特ダネも出てきます。時々息抜きに次官、主計局長なんかの面会のアポの権限を持っている秘書嬢と六本木のゲイバーに連れて行ってくれたり、取材しやすくする環境を作ってくれるんですね。
原稿の発想がすごかった。大蔵省の原稿って、小難しい数字だけの無味乾燥な原稿という感じですよね。「同じ人間が国の予算を作っているんだ。どういう人間が作っているのか連載をしよう」といって、予算編成を担当している主計局の主計官全員を一人ずつ取り上げる「主計官物語」を十数回連載したことがあります。連載終了後、赤坂の小料理屋で、登場した霞が関の官僚世界のエリート中のエリート、主計官全員を招いて打ち上げ会をしました。恐らく主計官の“総揚げ”ってマスコミでは前例がなかったんじゃないかな。
取り上げた主計官の中には、有名な“10年に一度の大物次官”といわれた斎藤次郎さんがいました。通称“デンスケ”といわれていた斎藤さんは、細川政権で小沢一郎さんと組んで「国民福祉税」構想をぶち上げる黒幕でした。首藤君は彼に食い込んでいたなあ。そのほか、篠沢恭助、小川是さんなど次官、長官、局長を輩出しています。
◇少年自衛官出身など若手もユニーク揃い
僕はサブキャップという役で、その下に若手が二~三人いるんです。この若手もユニークな人材がそろって楽しかったなあ。一人は愛媛出身の中卒で少年海上自衛官になり、大学検定試験で早稲田大に入って記者になったという西部本社の経済部から転勤してきた異色の首藤宣弘君(しゅとうのりひろ、のち「エコノミスト編集長」)、それと東大経済学部卒で原稿のうまいひょうひょうとした潮田道夫君(のち論説委員長)。少し遅れて三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の役員の御曹司のおっとりとした藤井晨君、こんな人たちが集まっているんだから、面白くないはずがない。
Q.少年自衛官出身の新聞記者というのもユニークですね。
ホント、海上自衛隊の駆逐艦に乗ってウラジオストックやマニラに行ったことある―なんて言っていたなあ。四国の松山の警察官の息子で酒を飲むと「わしゃ、佐々木さんみたいなひ弱な人間とは違いまっせ」とネクタイを肩に回しながら言われたもんです。まあ、酒の強いこと、強いこと、参ったなあ。でも釣りが好きで本も出しています。証券業界担当の兜町時代、“独眼竜”と異名を取った立花証券社長の石井久さんなどに食い込んで、その独特な相場観で連戦連勝の秘訣を連載、本にしたりしています。
首藤君は変わった人で電話取材の得意な人でした。昨年残念ながら亡くなりましたが・・・。僕が財研に着任してあいさつ回りで庁内を回っていると、理財局国債課の課長補佐だったか、その後、財務官などを歴任、国際協力銀行の総裁になる渡辺博史さんから首藤君を一度連れてきてほしいと頼まれました。「毎日電話で30分は話しているんだけど顔を見たことないんですよ」といわれてビックリしたことがあります。財研新人のぼくが渡辺さんの所に彼を引っ張っていき、名刺交換をさせました(笑)。渡辺さんが「あなたがスドウさんですか!」といったのはおかしかったなあ(笑)。つまり、電話で首藤さんは毎回「シュトウです」と言っていたはずなんですが、先方は「スドウ」と聞いていたんですね。
◇ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代(略)
◇財政が厳しくなる時期、親しみやすい大蔵大臣ミッチー(略)
◇グリーンカード構想の登場と挫折
Q.「増税なき財政再建」というスローガンがあったことは記憶していますが。
そうそう僕が財研に行った年の予算編成のスローガンが、「増税なき財政再建」というスローガンでした。それで取材のテーマは、一番の問題はグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)の実施でしたね。利子・配当所得への課税-証券会社や郵貯などの匿名口座を、どうやって捕捉するかというのが課題でした。そこに金持ちのお金がものすごく流れ込んでるわけです。マル優制度で300万円までだったら利子に税金がかからなかったですから。
大蔵省としては最終的な狙いは直接税と間接税の比率、いわゆる直間比率の是正にあったと思います。サラリーマンの源泉徴収システムに安住して、税収の70%強が直接税依存型の税制になっているのを、薄く広く税収を上げる間接税の一般消費税の導入をもくろんで財政再建を目指していました。そのまえに“金持ち優遇”のマル優制度を是正、公平性を担保して間接税・一般消費税を導入して、直間比率を是正しようという深謀遠慮があったと思います。当時、お金持ちは、株・債券、不動産売買のもうけなどを匿名で郵貯や、証券会社などに口座を作らせていたんですね、グリーンカードはそこを狙い撃ちして背番号をつけて口座を全部捕捉して課税しようという狙いでした。そうやって網をかぶせて行こうというはずだったんです。
ところがそのもくろみはもろくも崩れます。いったいどうして、誰がつぶしたのか?続きは次回とさせてください。