元気で〜す

2022年2月28日

元中部本社代表・佐々木宏人さん㉑ ある新聞記者の歩み20 禁断の木の実を食べたらどうなるかと案ずる人たち 抜粋

 (インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
 全文は https://note.com/smenjo

 Q.毎日新聞は2月21日、創刊150周年を迎えました。1965(昭和40)年入社の佐々木さんは在職中に100周年を迎えました。100周年、そして、150周年。どんな感想を?

 100周年の時は1972(昭和47)年で、水戸支局から経済部に上がって2年目。130周年に出された『毎日の三世紀 新聞が見つめた激流130年』を見ると「2月21日に各本社で『百年記念式典』を挙行」とあります。でも、全然覚えてないなあ。その頃、経団連クラブで電機メーカー担当で飛び回っていたころですね。

 むしろその2ヶ月後に表面化して大騒ぎになった、外務省沖縄密約機密漏洩事件で祝賀ムードは吹っ飛んじゃったことを思い出します。政治部の外務省キャップだった西山太吉記者が国家公務員法違反で逮捕されました。われわれ現場の記者は役員室まで乗り込んで「権力の横暴を許すな」と抗議して、紙面もその論調で行きました。ところが起訴状で西山記者が女性秘書と“情を通じ”て、情報を入手したことが書かれました。その結果、抗議の論調は腰砕けになり、読者の反発はすさまじく部数は減らすし、経営的にもピンチになり5年後の1977(昭和52)年12月、経営危機に陥り事実上の“倒産”、新旧分離につながっていくわけで、この経緯を振り返るといい思い出ではないなあ。

 経済部長の後、1993(平成5)年4月以降、広告局に移り企画開発部長を経て、広告局長になります。この時は毎年「2月21日の創刊記念日広告特集」の企画広告の展開、協賛の名刺広告の集稿などをやりました。150周年の協賛広告を見ると広告局員の苦労がしのばれます。でもまあ、よく150年、持ったと思います。社内の風通しの良さ、リベラルな雰囲気、本当に勤めていて気持ちのいい会社でした。そういうユルイ社風だからダメなんだ―と他社の人から言われたことがありますが、そういう社風が他社のよりも多い新聞協会賞受賞につながっていると思いますね。デジタル化の波を受けて、厳しい環境にあることは承知していますが。ぜひ頑張って欲しい。4月に社長になる松木健君は、ぼくが甲府支局長時代の新人記者でよく知っているので、おおいに応援したい。

目次
◆ゆうちょ(郵貯)は日本の“スイス銀行”?!
◆1面トップ記事をものにするには「夜回り」!
◆底なしの赤字国債拡大へ
◆エリート資格「三冠王」宅夜回りで聞いた警告
◆戦争体験の無い政治家ばかりになると・・・

◆ゆうちょ(郵貯)は日本の“スイス銀行”?!

 Q.1979(昭和54)年に政府がグリーンカード(少額貯蓄等利用者カード)を提案したのですが、結局つぶれてしまったということを伺いました。

 それを潰した中心人物が、当時自民党の国対委員長だった金丸信さんと思います。金丸さんが言ったのは「水清くして魚棲まず」。その心は「世の中には違法スレスレのブラックマネーが流れていて、その金が経済を円滑に回しいていく潤滑油になっている。その潤滑油を止めたらどうなる⋯⋯⋯」です。いかにも金権政治の田中角栄派の重鎮らしい言い方ですよね。後年、1993(平成5)年自民党副総裁の時、脱税事件で逮捕されたことを考えると実感がこもっていますね。グリーンカード法案は、1980(昭和55)年に「4年後実施」ということで法案は成立したのですが、郵貯を含めた金融業界、特に証券業界の猛反対、「国民背番号制につながる」という世論の危惧もあり、結局それは施行されなかったのです。

画像

 この時の主税局長は福田幸弘という人でした。この人は海軍経理学校卒で主計中尉。終戦前年のフィリピンのレイテ沖海戦の生き残りで、「連合艦隊-サイパン・レイテ沖海戦記」(1981年、時事通信社刊)という400ページ2段組みに及ぶ本をまとめています。復員後1952(昭和27年)年東大法学部を出て大蔵省に入り、仕事の合間に書かれました。「これを書き終えなくては戦友に申し訳ない」と言っていましたね。大蔵省担当の時、献呈を受けましたが、今でも「第一級の史書」と評価は高いようです。背筋のピンとしていた人物でしたね。最後は国税庁長官から参議院議員になって、議員の途中、2年ぐらいで亡くなった。僕のいたころの大蔵省の幹部はみんな戦争体験があり、「二度とあんな馬鹿な戦争を起こしてはならない。財政をあずかるものとして野放図な軍備拡張のための国債発行だけはしない。財政規律は守らなくてはいいけない」という芯が通っていたように思いますね。

 僕はこの福田主税局長の所にはしょっちゅう通っていました。グリーンカードの法案は実施段階の1985(昭和60)年には廃案になるんですね。この間、郵貯を抱える郵政省は「郵便局はスイス銀行です」なんてことを言って、自民党の郵政族の金丸さんなどを前面に出して公然とグリーンカード実施反対をとなえていました。福田さんは何とかしようとするのですが、結局、実施はお先真っ暗、法案はお蔵入り必至という感じでした。

 Q.「郵便局はスイス銀行です」というのは、スイス銀行のように預金者の名前は一切明かさないという意味ですね?

 そうです。スイス銀行は当時、世界の富裕層が匿名で安心して金融資産を預けられるということで知られていました。自国での課税逃れのためなんでしょうね。

◆1面トップ記事をものにするには「夜回り」! (略)

◆底なしの赤字国債拡大へ

 Q.現在は消費税を10%でも国債残高は、令和4年度予算案ではI千兆円を突破していますよね。大丈夫なんでしょうか?

 財政に関する資料というのを見てみると昭和40年度予算、40年不況といわれた時のテコ入れで2千億円の赤字国債を出しました。その後は48年まで赤字国債は出さず、予算執行で不足分が出ると、次年度返済するという“借換え債”でまかなっていたんですね。本格的に特例債といわれる赤字国債を出すのは、石油ショック(1973年)後の不況脱出のために1975(昭和50)年で、はじめて2兆円を発行しています。僕が財研にいたのが1981年から83年ですね。その頃、赤字国債発行額は6兆~7兆円。

 赤字国債発行は1975(昭和50年)位までは“禁断の木の実”だった。政治部に行ったばかりの頃、福田番でしたから福田赳夫首相に赤字国債発行のことを聞いたことがある。福田さん戦前戦後、大蔵官僚で主計局長の経験もあり、戦前の財政、つまり戦時国債を国民に販売するなどして戦費調達したのが、戦後のハイパーインフレで紙切れになってしまったというのを知ってるから、「赤字国債というのは一回出すと禁断の木の実で、財政がとんでもないことになる。だから、これだけは手を染めてはいけない」と言ってました。

 僕が政治部の1977(昭和52)年頃、赤字国債発行は4兆5000億円くらいかな、とにかく少ないですよね。2022(令和4)年度の新規国債発行額は37兆円で、その結果、年度末の発行残高は1026兆円の見込みというんですから、福田さんの言った通りですね。それも市中銀行では処理できなくなって安倍内閣時代、ついに日銀引き受けという禁じ手中の禁じ手に手を染めるんですから・・・。先進国中で断トツの債務残高比率ですよね。

◆エリート資格「三冠王」宅夜回りで聞いた警告