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2022年3月30日

元中部本社代表・佐々木宏人さん㉒ ある新聞記者の歩み21 牙を抜かれる前の誇り高き時代の大蔵省こぼれ話 地下に霊安室?! 抜粋

(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)

 全文はhttps://note.com/smenjo

 経済部大蔵省担当完結編(3回目)は、官庁の中の官庁と言われたエリート官庁大蔵省(現財務省)での見聞記です。大蔵省にとって大きな分岐点だった当時のことを振り返って。

目次
◇官官接待の日々、たくみに誘う民間金融業界
◇がんばる田舎出身者が消えた・・・
◇地下の“霊安室”と“大蔵温泉”
◇キャリアの謙虚さはどこから来る?
◇女性キャリア片山さつきさん
◇大蔵省裏の裏
◇官僚主導の方がよかったのか?
◇牙を抜かれた大蔵省

◇官官接待の日々、たくみに誘う民間金融業界(略)
◇がんばる田舎出身者が消えた・・・

Q.大蔵省の人材というのは、それまでつきあっていた通産省の人などと違いますか?

 やっぱりプライドがありましたね、各官庁がみんなひれ伏してたから。それと政治家もひれ伏してたでしょ。地元の橋だとか道路だとかいうのは建設省や自治体の担当といったって、金の配分の大元を押さえているのは大蔵省ですから。大蔵省がトップだということでみんな認めていたし、大蔵省の役人自身そこをわきまえて、ふんぞり返ったりしないということはあったんでしょうね。よく、昔は官僚支配だったと言いますが、もっと言えば大蔵省支配だったわけです。

 前回お話しした主税局長だった福田幸弘さんの「連合艦隊-サイパン・レイテ海戦記」とか、主税局長、国税庁長官を歴任して僕が経済部長の時の次官・尾崎護さんなんていう人は、明治の時代の誰だったかな、何冊か伝記を書いてますね。そういう意味ではきちっとした人が多かったように思います。偉ぶらず、知性があったような気がします。自分の世界を持って、MOF担のちやほやに溺れる暇はなかったんじゃないかな。

Q.今と比べるとほとんど東大法学部だったでしょうか?

 今の財務省の次官の矢野康治さんが“初の一橋大出”と言われるほどだかから「東大、それも法学部でなければ人にあらず」という感じはあったな―。でもその頃以降からだんだんと官僚気質も変化していったように思います。第一次石油危機の時の各社の取材仲間と、当時のエネ庁長官など通産省関係者との“石油戦争戦友会”というのがあり、取材当時の思い出話をするんです。バブル後の集まりだったかな、当時の通産省の秘書課長、人事・採用担当でもあるんですが、彼がボヤいて言ったことを記憶しています。「昔の役所には名前も知らない地方の高校の“田舎の秀才”が、その高校の創立以来初めて東大に入って、卒業後役所に入ってきた人物が一人や二人はいた。田舎の期待を一身に背負って泥臭く頑張る。それが役所のパワーになっている面もあった。ところが最近はそういう田舎の高校から人が来なくなった」というわけです。

 僕は麻布高校だったけれども、霞が関界隈では「麻布を出たやつに次官はいない」って言われてたんですよ(笑)、というのはそういう田舎から出てきた連中と次官競争で競り合うと「そんな出世競争?カッコ悪いよ」と言って都会人だから降りちゃう。ところが東北や九州、四国などの田舎の高校の出身の人たちは、郷土の名誉にかけて、絶対負けられないと言ってがんばるんですよ。じゃがいもみたいな顔してるんだけど(笑)頭はいいんです。でもこういう人たちが、国土としての日本という全体を見渡せる目を持っていたんでしょうね。今みたいに東京の進学校の開成高校出身者ばかりが、幅を効かせる官僚社会というのはどうなんだろう。大蔵省にも本当のド田舎出身の優秀な人っていうのがいましたよ。新聞社もそうでしたね。開闢(かいびゃく)以来初めて東大に入ったという九州の高校からの人が政治部にもいましたね。ガッツありましたね。

◇地下の“霊安室”と“大蔵温泉”

Q.「開闢会」ってのが東大にあるって昔聞いたことがあります。おっしゃったようなめったに東大に入らないような高校の出身者の会です。

 そういう人たちはものすごくガッツがありましたね。ちょうど、親父さんが戦争で亡くなって母一人で苦労して育てて、郷土の期待を一身に背負って頑張らなくてはいけないという世代ですよね。役所に入って夜の夜中まで時には徹夜してまで、主計官なんかそうやって仕事やってました。今でいうブラック企業どころじゃないです(笑)。地下には「霊安室」っていうのがありましたよ。霊安室っていうのはね、疲れて寝る場所なんですよ(笑)。いわば仮眠室。風呂場もあって、通称「大蔵温泉」と言ってました。予算編成のピーク時の年末には主計局の約360人中、200人は泊まり込みという状態になります。霊安室には30人も泊まれない。仕事部屋のソファー、机の上でのうたた寝、ごろ寝。超勤時間200時間から300時間はざらの“最強のブラック職場”。とにかく「坂の上の雲」を目指して何が何でも、日本を一流国にしようという時代だったから我慢できたのかもしれない。

◇キャリアの謙虚さはどこから来る?(略)
◇女性キャリア片山さつきさん(略)
◇大蔵省裏の裏

画像
森田明彦さん

Q.寺村壮治さん(第19回参照)が博報堂にスカウトされ、ワシントンに行かれた後のキャップはだれがなられたんですか。

 キャップになったのが経済部の森田明彦さん、確か日銀担当から来たんじゃなかったかな。一昨年亡くなりました。面白い人だったな。森田さんが中心になって紙面に連載した「大蔵省裏の裏」(同友館、1983年(昭和58)年6月刊)という本があります。

Q.企画の発想はどういうイメージですか。

 当時、大蔵省と言えば官僚中の官僚、日本の経済を動かす司令塔、天下の秀才の集まるところ―なんてイメージがありました。そこに目をつけて実際の大蔵省の役人がどういうことをやっているのか、本当に大蔵省に日本の経済・財政をまかせていいのか、そこをキチンと描こうという意図だったと思います。世間に流布している大蔵省のイメージと、実際の大蔵省の役人とのギャップを描こうという気持ちがあったと思います。

Q.佐々木さんも書かれているのですか。

 僕もこの本に「情報管理の裏の裏」というコラムを書いてます。当時、仲良くしていた「週刊宝石」の記者から聞いた話を書きました。証券局の課長が証券会社のツケで、銀座で飲み歩いていたというのを「週刊宝石」が書くことを大蔵省がキャッチするんです。大手広告代理店に手を回して、新聞広告の見出しを「大蔵官僚」という大見出しが「経済官僚」に変えられたというのです。森田さんは面白がって「それが本当の“裏の裏”だ」と言って書かされました。

Q.森田さんは後に論説委員長、監査役など。どういう方だったんですか?

 それが不思議な人なんですよね。ほとんど自分のことをしゃべらなかったんです。ただ子供時代、中国にいて両親を亡くし日本に引き揚げてきた時、小学校6年生だったというんですね。ですから僕より二つ上になります。昭和30年頃引き上げてきたんじゃないかな。父上の仕事、毛沢東時代の中国のこと、酒飲んだ時も一言もこぼさなかったな。かなり大変な人生だったんじゃないかなあ。中国語はペラペラでした。

 ところが日本に帰ってきて、そのハンデをものともせず東大経済学部に現役で入り、毎日新聞に入社したんですね。僕なんかから見ると、どういう頭をしてたんだろうと思いますね。若ハゲで度の強いメガネをかけ、太っていて愛嬌がありました。でも理解力は抜群で、僕がネタを取って来て説明すると、原稿の位置付けをキチンと示してくれました。その意味で寺村さんといい、森田さんといい、良きキャップに恵まれましたね。

◇官僚主導の方がよかったのか?

Q.<官邸主導>の現在よりも、<官僚主導>の時代の方がよかったと?

 岸田内閣になって少しは変わってきたのかもしれないが、安倍、菅政権の8年間を見ていて、官邸にいる人がもうちょっときちんとした信念と知性を持ってやればできるんだろうけど、公文書は平気で隠すは、知らんぷりはするは、責任は取らないという形だとやっぱり国としてまずいですね。ウクライナへのロシアの侵略を見ていると、安倍首相があれだけプーチンと27回も会談して、友情を誇らしげにしていたのに、この事態に及んで何の動きもせずに平気でいるのにはびっくりしますね。本当の信頼関係がなかったという事なんでしょうね(以下略)。

◇牙を抜かれた大蔵省

 「大蔵省の裏の裏」という森田明彦さんがまとめた本の最後に、大蔵省のドンと言われた元日銀総裁森永貞一郎さん(1957 年大蔵省事務次官、74年~79年日銀総裁、86年76才で死去)が、後輩にはなむけとしてのコトバを述べています。「国債を日銀に売るのは、日銀の国債引き受けと同じ効果になるので絶対にやるべきではない。大蔵省は安易な道を歩こうとはしないと私は信じている」、日銀の引き受けだけは絶対にやっちゃだめだといわれています。つまり国債発行の歯止めが無くなる、破滅の道だと警鐘を鳴らしています。

(以下略)