元気で〜す

2022年6月10日

元中部本社代表・佐々木宏人さん㉓ ある新聞記者の歩み22 記者から労組委員長へ 2年間の得がたい経験 抜粋

 (インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
 全文は https://note.com/smenjo

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毎日労組機関紙「われら」(1983年10月30日付)

目次
◇記者がなりたがらない労組委員長に就任
◇〽ボロは着てても、心は錦―プライドがあり、記者の仕事が好きだから
◇新旧分離の“奇策”で会社延命、新旧合併への機運
◇組合委員長の役割と薄氷のストライキ
◇会社と組合、薄給の中で
◇目をかけてくれた先輩のひとりは“憤死”、もうひとりは辞めてサバサバ
◇記者とは違う組合委員長の日々の過ごし方
◇関連会社との微妙な関係
◇楽しかった組合活動 現業の人たちと知り合えたのも宝

◇記者がなりたがらない労組委員長に就任

Q.大蔵省記者クラブの後、労働組合の委員長に就任され、2年間勤められますね。

 1983(昭和58)年10月に毎日労組の委員長になりました。今の時代、「労働組合」の存在自体、政治にはあまり影響がない時代なってきています。当時は国会で3分の1の議席を保有していた日本社会党(現・社民党)の“集票マシン”は、「総評」(日本労働組合総評議会の略称)でした。大手企業の450万組合員を傘下に持ち、「護憲運動」、“安保(日米安全保障条約)改定反対闘争“にも力を発揮していました。「総評」の戦後の平和運動主導の運動方針に反対して、賃上げの経済闘争を中心に据えた全繊同盟、海員組合などが1960年に「総同盟」を作り、民社党の基盤となります。これが統一され現在の「同盟」に。「連合は、共産党や市民連合とは相いれない」という昨年10月に就任した、初の女性の委員長・芳野友子氏の発言、様変わりですね。ビックリしたなあ。当時、全国紙、地方紙問わず新聞各社の組合は総評系の「新聞労連」の傘下に入り、毎日新聞もその先頭に立っていました。その委員長は朝日、毎日、読売の順番で出していたと思います。産経新聞は脱退していましたね。(中略)

 東京本社には、編集、営経総(営業・経理・総務)、印刷、地方機関会などの分会があるのですが、「東京本社の支部長は編集局の中から出す」という暗黙の了解があったように思います。2年任期で各部の持ち回り、経済部では六年前にFさんが出ています。私の前任者は国内外の原稿を各部に集配信する編集局連絡部のOさんでした。

Q.だけど大蔵省担当から組合委員長とは!また百八十度転換ですね。総評に加盟している新聞労連傘下で、共産党色もあるといわれた活動的な組合の委員長にどうして佐々木さんがなったんだろうかという疑問がわくのですが(笑)

 毎日新聞はユニオンショップ制なので、とにかく社員だったら全員組合に入るわけです。だけど共産党色と言ったって紙面は“中立公正”がモットー。一部の現業職場の人がそうであっても編集紙面にはまったく関係ありませんよ。外務省機密漏洩事件の毎日新聞政治部者・西山太吉記者逮捕事件のとき、言論弾圧は許さないという主張で動いたこともあったし、編集分会でもそういう感じで動いていた。簡単に言うと毎日新聞をつぶしてなるものかという感じが強かった。組合側としても、経営トップとつながりがある佐々木だったらスムーズに行けるということがあったでしょう。ただ、編集局内部では冷たい見方をされました。あいつは経済部出身の役員の言う通りにしかしないとかね。

◇〽ボロは着てても、心は錦―プライドがあり、記者の仕事が好きだから

Q.他社とは待遇の差が続いたと想像しますが、だからといって、委員長を引き受けて急に年収を上げられるとは思えないんですが。

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最近の佐々木さんご夫妻(2022年5月)

 1977(昭和52)年の実質的な経営破綻である“新旧分離”から6年経っていますね。毎日労組の資料で各社の比較を見ると、ぼくが委員長になる1983(昭和58)年の年収(ボーナスを除く)は286万3337円、朝日は519万826円、労連加盟の大手12社平均が439万7143円で圧倒的な差ですね。債務を旧会社が全部引き受け、新聞発行に専念する新会社を作ったのが「新旧分離」策です。

 でもやっぱり日本のジャーナリズムにとって、「毎日新聞」は、本当に必要だと本当に思っていましたね。倒産させてなるものか、こんなに自由で書きたいことを書ける新聞は、権力監視という観点でも日本の社会に欠かせないもの、今でいえば“社会的公共財”と社員みんな思っていたと思いますよ。当時の歌で水前寺清子の「一本どっこのうた」の〽ボロは着てても、心は錦(にしき) どんな花よりきれいだぜ〽という感じかな(笑)。だけど取材、紙面だけでは他社に負けていないというプライド・自信は絶対にあったからなー(笑)。でも本音は「花より団子」給料は高い方がいいよね(笑)。

Q.最終的に委員長を引き受けるわけですが、決断の引き金を引いたのは何ですか?

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佐治俊彦さんと歌川令三さん(佐治さんは「財界」2006年2月28日号、歌川さんは『新しい資本主義』(自由企業研究会著、PHP、1993年刊)から)

 編集分会で次はどこの部から出すかを検討するわけですが、このところ委員長を出していない経済部に白羽の矢が立ち、多分、経済部出身の佐治俊彦取締役経営企画室長、経済部長の歌川令三さんあたりが画策して、僕の名前が出て、受けざるを得ないようになった感じだったと思います。気が付いたら周囲の堀を埋められた感じだったな。

Q.新聞記者として油の乗り切った時だったと思いますが、未練はなかったですか?

 そりゃありましたよ。本当は経済記者として大蔵省担当をやり、まだまだ取材経験を積んでいきたいと思う時期ですよね。自分で言うのも変だけど、記者としてあなたがいうように“油が乗った時期”だったと思うんですよ。ですからいつも編集分会のこの労働組合委員長選びはもめるんですよ。出来たら逃げたいと思うのが普通ですよね。佐治さん、歌川さんから「受けたほうが良い」と言われて、逃げ道をふさがれ、抑え込まれた感じかな。

Q.経営側に立つ人が組合人事に介入するんですか。

 もちろん直接的に表面に立つことはありません。でも先輩・後輩という立場で相談にいきますよね。そうすると2人とも僕が委員長になることを期待していることが、阿吽(あうん)の呼吸で分かるんですよね(笑)。 佐治俊彦さんは3年前86歳で亡くなられましたが、ワシントン特派員から戻ってきて、僕が経済部に来たときの経団連の1階のキャップだった記者です。中山素平(日本興業銀行頭取)だとか、今里廣記(日本精工社長)、永野重雄(新日鉄会長)などの、政界とも深いパイプを持つ財界人にも信頼が厚い記者でした。彼は経済部長から編集局長になるのが確実と見られていたんですが、自分でも「おれは筆一本で行きたい」と言っていましたね。そこに起きたのが新旧分離です。毎日新聞が実質的に倒産、この時期に社長になったのが監査役だった、財界人とも親しい経済部OBの平岡敏夫さんでした。佐治さんは平岡さんに懇願されて経営のかじ取りをする経営企画室長になり、当時、取締役を兼務していたと思います。

 歌川さんもワシントン支局から帰って経済部長、その後で経営企画室長、編集局長をやります。佐治-歌川ラインで毎日新聞のリーダーシップを握って、平岡さんを社長(後に会長)にし、新旧分離路線を敷いて生き延びることに成功した。佐治・歌川さんとワシントン・ニューヨークで一緒だった山内大介さんという外信部出身の取締役主筆が1980(昭和55)年、社長になりました。ところが「次は、佐治から歌川体制になる。経済部支配だ!」と他部からから見ると、面白くない雰囲気が編集局の底流にはあったと思います。

 でも、佐治さん、歌川さんは会社のためだと思って、一生懸命やっているわけです。ぼくなんかは、両方とも能力のある記者で好きだったし、わりとかわいがられていたと思います。だけど経済部内にもそのやり方に反発を持つ向きも多かった。TBSのニュースキャスターで成功する嶌信彦君などはその筆頭で、他にも英国通信社のロイターなどに転職した記者も多かった。

◇新旧分離の“奇策”で会社延命、新旧合併への機運

Q.当時の毎日新聞の経営状況は?

 ぼくに組合委員長の白羽の矢が立った当時、会社は大きな転換点を迎えていました。ひとつは、新社、旧社の合併です。新旧分離の体制が6年目となり、新社はかろうじて黒字体質になり、旧社の抱えた莫大な借入金も少なくなり、新旧会社をもう一緒にしていいのではないかという経営判断です。確かに新社発足時に年間売上額が1千億円だったのが、1981年度には1400億円、部数も36万部増えて470万部になっていました。 しかしその後、委員長になった時は公正取引委員会の行政指導などもあり、販売正常化の流れの下で部数、売り上げとも減少傾向に入っていました。広告収入は80年度が513億円だったのが、84年が510億円でした。それと要員(組合員)も6155人から5364人に減っています。定年補充をしなかったことが大きいですね。

Q.新旧分離した会社を再度合併させる意味、メリットは何なんでしょう?

 1985(昭和60)年9月に委員長を退任し、その10月に毎日新聞が新旧合併しました。それで資本金が41億5千万円となって新会社というか、元の毎日新聞社になりました。だけど旧社には累積欠損というのが107億円あったのかな。大阪本社の土地簿価11億円弱だったのを182億円強にして帳簿上黒字会社にしました。バブル経済時代の土地バブルのおかげですよね。 その前には東京本社のパレスサイドビルのリーダーズダイジェスト所有の底地を入手しています。大阪本社の土地の売却による新本社の建設、当時各社が競っていた地方分散印刷工場の建設などに充てました。どうにか“従来通り”他社の半分程度の給料・一時金を払える体制にもっていけたという事でしょうね。客観的に見れば、「佐治・歌川ラインに乗る経済部の佐々木に、この新旧合併の組合側のOKを取るために委員長に据えた」と見られていたと思います。

◇組合委員長の役割と薄氷のストライキ(中略)

 組合委員長として過ごした2年間を振り返ると、春闘だとか冬、夏の一時金闘争で全国回ったりして、けっこう楽しかったですよ。でも今まで付き合ったこのなかった現業の社員、青色の菜っ葉服を着て、巨大な輪転機に相対してインクにまみれて働いているわけで、新聞はこういう人がいて初めてできるんだという実感を持ちましたね。本当の意味での「労働者」を知ったという感じがありましたね。ありがたかったなあ。もう一つ、新聞労連という組織の中で、毎日新聞が全国紙という観点で高い評価を得ているという実感を持てたのもよかった。委員長としてのぼくを支えてくれた当時の仲間は、何人か亡くなりましたけど、メンバーに本当に感謝したいと思いますよ。今のデジタル時代の組合員から見れば“新聞黄金時代”、夢のような時代なのかもしれません。あれから40年。デジタル化の急速な流れの中で、毎日新聞には取材網と人材を生かして頑張って欲しいですね。現在の毎日新聞労組のポジション、よくわかりませんが何とかこのデジタル化の波を乗り切れるように、経営側の尻を叩いていって欲しいですね。