元気で〜す

2022年7月19日

戦いすんで 日が暮れて・我が「定年」回避50年―元論説副委員長、宮武 剛さんの報告

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 人間は、「実(暦)年齢」に加え、3種類の年齢を持つ、と書いたり話したりしてきた。実年齢より若々しい「肉体年齢」や「精神年齢」を持つ人々はざらにいる。肉体的には衰えても、みずみずしい感性を保つ人も多い。

 だが、個々人の特性や努力は軽視・無視され、社会的に年齢を決めつけられることがある。その代表・象徴が「定年」である。働く意欲も能力もあるのに引退を迫る非道な、いわば「社会年齢」だ。

 しかし、定年廃止は遅遅として進まず、自分自身は「定年」を迎えないように生きたい、とひそかに思った。

 毎日新聞は定年60歳の時代に55歳で退職した。創立時の埼玉県立大学へ転じ、65歳定年前の63歳で辞めた。次いで、目白大学・大学院で創設の生涯福祉研究科へ移り、70歳定年前の68歳で辞めた。付録もあって、非常勤の客員教授で残ったものの、それにも73歳の定年があると知って、72歳で辞めた。

 もちろん、そのたびに職場を紹介してくださる師匠格や先輩らに恵まれたおかげである。論説委員として社会保障、社会福祉を担当していたのも幸運だった。かつて「事件・裁判」「教育」、それに「福祉」の担当者は「論説室のバルト3国」と、天野勝文先輩がいみじくも名付けられた社会部出身の弱小勢力だった。ところが、福祉の大事さが叫ばれ、新たな大学、学部が生まれる一種の“福祉バブル”のお裾分けに預かった。

 もちろん制度や慣習に反抗すると損もする。毎日新聞からは早期退職の割り増しをもらったものの、大学は自己都合に冷たく、正規の退職金にも名誉教授の称号にも縁がなかった。

 68歳で、ついに夢に見たフリーランスになれた。実質的に無為徒食になると恐れていたが、友人、知人、先輩達があちこちから声をかけてくれた。「コラムを書いてみろ」「連載をやってみるか」、さらにEテレで「福マガ」(福祉マガジンの略)という新番組の編集長(キャスター)にしてもらった。とにかくヒトに仕えるのも、ヒトを使うのも嫌いな勝手ものには、「我が世の春」だった。

 そこへ、専門学校の理事長を引き受けろという、とんでもない話が舞い込んだ。

 医療や介護を中心に地域づくりのNPO「福祉フォーラム・ジャパン」を立ち上げ、医師や福祉関係者や官僚OBらと活動していた。その一人、アビリティーズ・ケアネットの伊東弘泰会長からの誘いだった。東京都小金井市の一般財団法人「日本リハビリテーション振興会」は、理学療法士(PT)と作業療法士(OT)養成の「社会医学技術学院」(昼夜間部、学生約500人)を運営する。1973年開学で、わが国のリハビリテーション黎明期からの老舗である。

 こちらは、まったくの素人で断り続けた。しかし、財団の評議員でもある伊東さんや、OTの草分けで80歳を迎えた女性理事長は、厚労省からの天下りは忌避したい、医師も独善的になりがちで避けたい、という。伊東さんはポリオの後遺症で義足をつけ、就職時100社から拒否された体験を持つ。リハビリとその専門職育成の大事さを実体験され、この独立独歩の専門学校の強力な後援者である。「ぜひ」と懇請され、意気に感じた。

 常勤の教職員35人、社会人や大卒者を含み500人弱の小さな学校だが、学生たちは口々に「こんにちわ」とあいさつし、授業中の私語もなく、国家試験を目標に夜遅くまで学内で自習する。合格した大学を振って入学する若者もいて、愛らしく、誇り高い専門学校である。

 大病院(医療法人)の付属でもなければ、大学(学校法人)の傘下でもない。一般財団法人運営のリハビリ専門学校は全国でも数校しかない。なぜ学校法人に衣替えしないのか? 学校敷地1000坪余は借地で、買い取って自己保有しない限り、学校法人の要件を満たせないことを知った。

 地主の家に通って、買い取り交渉を始めた。記者時代の「夜討ち朝駆け」に比べれば大したことはない。高い買い物だったが、3年がかりでまとめた。次は財団法人を解散し、新たに学校法人を設立し、一気に財産をすべて新法人へ移す。「離れ業ですな。管轄の内閣府が認めるかどうか」と顧問弁護士は心配した。

 トイレに入り、便器の数を調べ、学生数に合うかどうかまで点検する東京都の厳密な調査はクリアーしたが、顧問弁護士の予測通り、土壇場になって内閣府は「前例がない」と渋った。経営的に安定し、何より学生のためになる組織替えを阻止される理由などない。下から積み上げてダメなら、上から叩くのも記者時代からよくやった手口である。

 足掛け5年、晴れて学校法人「日本リハビリテーション学舎」が誕生した。「学舎」と名付け、塾のように教師と学生、学生同士が親密に交わる「学び舎」でありたいとの思いを託した。学校名は創立者がその志を示した社会医学技術学院(通称・社医学)のままである。

 人生晩年で、思いがけない回り道をした。もう辞めようと思った頃、コロナ禍に見舞われ、動きがとれなくなった。それでも、初志は貫徹し、いわば理事長“定年”の任期を1年残して通算7年で、この5月末、辞任した。後任には、女性の学院長が初の生え抜き理事長となり、私も顧問で来年の創設50周年を迎える。

 戦いすんで、日が暮れたが、日は沈んだわけでもない。回り道の途上も原稿を書く作業だけは続けてきた。毎日新聞には「暮らしの明日・私の社会保障論」を月1回、6年連載、健康保険組合連合会の月刊「健康保険」で「宮武剛の社会保障“言論”」をちょうど20年連載。

 現在も福祉新聞に月1回の「論説」が10年目(福祉フォーラム・ジャパンと入力してもらうとホームページに論説が転載されています)、「週刊社会保障」のコラム「外野席から」は通算5年目になる。Eテレの「ハートネットTV」にもブログ「社会保障ってなんだ」「社会保障70年の歩み」がアップされている。

 この世界には「定年」はないのが素晴らしい。

(宮武 剛)

 宮武剛さんは1968年入社、西部本社・報道部、佐世保支局を経て東京社会部、論説委員、科学部長、論説副委員長