2022年7月27日
森浩一さんが生活家庭部長だった頃を永杉徹夫さんが振り返って
「森浩一・元社会部長の『東京社会部と私:記憶の底から』」をプリントアウトして何度も読ませていただいている。きわめて貴重なこの個人史の凄さに圧倒されながら読み進んでいると、森さんが新設の東京・生活家庭部長になられた時からのちの6年ほど同部員だった頃のことも、しきりに思い出されるのだ。
筆者は社会部育ちではない。よって口をはさむのは気がひけるのだが、そのころの生活家庭部のこと(40年ほども前の話になるが)を僭越ながら書かせていただく。
同連載初回に付記されている経歴によると、生活家庭部長就任は1982年(当初は学芸部長兼務のち編集局次長兼務)。1985年に経営企画室長、1988年に東京・編集局長に就かれている。
82年までは学芸部で作っていた家庭面を拡充するために新設されたのが生活家庭部だった。その船出の責任を負い森さんが部長になられたのである。新しい家庭面づくりは時代の要請であり、緊急事だったのだ。
スタートした新部は森部長のもと、迅速かつ順調に育っていった。「森学校」とも言えるその空気のなかには、やる気と喜びがあふれていた。そしてその教室をより充実させた専門記者たちの顔ぶれも揃っていた。科学・医学分野の牧野賢治さん(マキケンジをもじって皆「マッケンジー」と呼んでいた)が、老人問題の「ヤッサン」こと安田睦男(みちお)さんがいた。ともにその道の嚆矢であり第一人で、毎日卒業後もその分野のジャーナリストとして世に貢献されたのは知られるとおりだ。ともに社会部から来た逸材だった。
手元に、ご両人の初期の著書がある。牧野賢治『入門 科学記事の読み方』(日本実業出版社、1983)は「重要になってきた科学記事」「ますます面白くなる科学記事」など93ポイントをあげ、科学記事をいかに読むかを丁寧に説いている。科学ジャーナリストの重要性と、今後の我が国独自の科学発展への期待など、その先見性は今さらに重みをましている。終章「科学ジャーナリズムの行方―これからが本当の確立の時代」中の「私は、科学ジャーナリストも足で書くべきだと思っています」も重い言葉と思う。その後の著作『神への挑戦』『タバコロジー』『背信の科学者たち』『科学ジャーナリストの半世紀』などに通じていく本書は、「謹呈」の署名の文字どおりの、柔らかい心にしみる本だ。
安田睦男『安心な老後・とまどう老い』(労働旬報社、1991)はヤッサンが毎日定年の記念に出版したもので、家庭では主夫もしながら老人ホームなどを取材して回るなどして記事にしたものをまとめた。送られてきたこの本には手紙が添えてあり「卒業論文のつもりでまとめました」とあった。生涯、反骨のジャーナリストを貫いたヤッサンだったが、心底優しい人だった。部員何人かでお宅に招かれて過ごしたことも忘れられない。
森さんは、東京社会部に着任した時の情景や大先輩の顔などを目に浮かぶように覚えていると書いておられるが、筆者も在籍時の生活家庭部の風景がまざまざと目に浮かぶ。
マッケンジーもヤッサンも、柔和で謙虚な人柄だったが、自他ともに厳しい人だった。
マッケンジーは当時から喫煙の害を強く訴えていて、喫煙者を断じて許さなかった。だが斜め前の席にいる冨重圭以子さんが、盛大に紫煙をくゆらせながら原稿を書いているのに対してはむしろ温かい目で見ていた。当時画期的な連載「現代の性」を一年がかりで加藤節子さんとともに取材・執筆中の彼女だった。
ご両人の厳しさと優しさは、まさに森部長のそれであった。部員への指導ぶりは、懇切丁寧で厳しいなかに秘めた優しさがあった。部員への敬意と信頼があったからだ。
部会で説教したり演説をぶったりするのではなく、自らの考えをデスクに伝え、デスクを通して部員に書かせるというふうだった。それはまたデスク教育でもあったのだろう。
思い出すシーンがある。ある記者が、障害児を持つ母親を訪ねて書いた記事に対してその母親から心のこもった礼状が森部長宛てに届いた。森さんはそれを書いた記者に手渡す前に、近くの席にいる同記者に聞こえるよう声を出して読み始めたのだ。それを他の数人も周りを囲んで聞いていた。文字どおりの森教室であった。
「生活家庭」という命名もよかった。生活と家庭はひとつだからだが、今は新聞もテレビも概ね「くらし」という言葉でひと括りにしているようで、家庭が置き去りにされ埋没してしまっているように思えてならない。だが「家庭」は消えてはならない。
あらゆるドラマの淵源は家庭にある。家庭喪失もドラマ、その再建もドラマだ。
世界は家庭から育つ一つの家族だ。その家族という小集団には、かつては家庭を構成する共同体が絡みあってつくりあげた様々なしきたりや生活様式があった。だが今の社会的しきたりや社会生活の崩壊ぶりはどうだ。家庭生活の崩壊が招いた結果ではないか。
連載1回目に添えられている、旧社屋跡地に建てられた有楽町のビル前に立っておられる森さんの近影および貫禄十分の旧社屋の写真の、懐かしいことよ。
同時に思い浮かぶ、ともに働いた友らの顔や姿も今はただ懐かしいばかり。石塚光行君がいた、荻野祥三君も、高田城君も、荒井魏(たかし)君もいた……。生活家庭部は心のふるさと、すばらしい経験だった。
以上「昔の光いまいずこ」を言うばかりになってしまったようだが、言いたいのはそればかりではない。毎日の歴史・伝統は脈々と引きつがれている。現在、この上なく重要度を増してきている科学報道、老人問題に対して、懸命に取り組んでいる現役記者たちは、よく頑張っているのだ。
新部発足と同時に、浦和支局員だった筆者にお声をかけてくださった森部長さんへの感謝は消えることがない。ずいぶん長い年月を経てのことであるが、今日まで口に出して言えないできたその思いを綴らせていただいた。
(東京生活家庭部OB 永杉 徹夫)