2022年8月1日
元中部本社代表・佐々木宏人さん㉔ ある新聞記者の歩み23 甲府支局長に赴任。家族6人そろって転居、地域とつながる。抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo
佐々木宏人さんは、44歳の春、山梨県の甲府市局長として赴任しました。佐々木さんが異色だったのは、家族(妻と子供4人)もいっしょに引っ越して家まで買ってしまったことです。支局では、地元に明るく指導力あるデスクや、成長途上ながら優秀な若手といった人材に恵まれました。地方での仕事は実におもしろく有益だったと言います。
目次
◇支局には“キャリア組”と“ノンキャリア組”がいた。
◇絶対に家族で行くぞ、地元とつながるんだ
◇甲府に家を買って地元に定着、東京に異動後も“半身赴任”
◇地元通の辣腕デスクがいて大助かり、ぼくは事業で金集め
◇「無尽会」が取り結ぶ横の関係
◇支局には“キャリア組”と“ノンキャリア組”がいた。
Q.1986(昭和61)年4月に44歳で、甲府支局長として赴任されるのですね。
支局というのは当時の毎日新聞東京本社編集局内では、静岡県以北、青森までの17県の県庁所在地に置かれた支局と、その圏内にある中小都市に置かれた通信部という地方機関を統括する地方部に属します。地方部長は地方部育ちの人が定年前の“上がり双六”のような感じでなるか、社会部の経験者がなる印象でした。ただ首都圏の横浜、浦和などのニュースも多く、支局員の人数も多い支局はたまに政治部から支局長になる人はいた感じです。大阪本社でも京都、神戸支局は別格の感じでした。でも経済部から支局長になるというケースは、めったになかったんじゃないかなあ。
Q.なんでまた各部から出すように変わってきたんですか?
戦前・戦後、地方支局は通信部を含めて社内では「地方機関」と言いました。ほとんどが現地採用の記者が多かったと思います。支局の事務補助員(坊や―と呼んでいましたが)、運転手、男のパンチャーなど主に高卒の人、地元紙で全国紙で活躍したいと思う記者などを引き抜いたケースなど、その時の支局長が見込んで地方記者採用という枠の中で通信部主任にしたケースが多かったようです。
そういう地方採用の記者を昭和30年代半ばまでは“赤伝(あかでん)採用”と言っていたようです。それに対して、大卒の採用試験を受けた正社員は支局では“特待生”といっていたと、水戸支局の古い通信部主任の人から聞いたことがあります。そういう特待生は支局に1人か2人、しかも1年しかおらず、本社の社会部、政治部、経済部、外信部に上がる時代が続いていた。ですから当時の支局員のほとんどが“赤伝採用”だったようです。
でも昭和30年代半ばからだんだん大卒の正規採用が増えて、“赤伝採用”の人達は通信部主任になり、本社に上がったり、支局員の大半は正規の大卒社員に代わっていきました。ですから支局長も地方部出身者がなるケースが段々と少なくなり、編集局の各部で回さないといけないようになってきたんじゃないかな。それと新人教育という観点でも、各部出身の支局長がいた方がいいという事になったんだと思います。
Q.なんだか、採用差別のようで、あまり人聞きのいい言葉じゃないですね?
ぼくのおやじが毎日新聞の長野支局長で、母親と一緒に支局とつながっている社宅に住んでいました。中学3年の頃だったか支局内にいて、たまたま見ていたのですが、松岡英夫さんという当時の編集局長で余録(1面下のコラム)の筆者になっていた時期もあった、オヤジと同期生で都知事選にも立候補したことのある人から電話が来て、当時いた特待生を「政治部に上げる」ということになったのです。オヤジからその辞令を聞いた特待生のYさんは、「ホントは社会部に行きたかったんだよな」とつぶやいたのです。回りのデスクで原稿を書いていた赤伝の記者たちが、聞こえないふりをして原稿を書いていた様子が、ぼくの記憶に焼き付いています。まあ、うらやましいというか、「1年しかいないくせに--⋯」。くやしいというか、あの雰囲気は忘れられないですね。ジャーナリズムは正義の味方―なんて言いながら、社内には一種の身分差別があった時代ですね。
◇絶対に家族で行くぞ、地元とつながるんだ
ぼくが甲府支局長になったのは44歳で、支局長になる年齢としては若い方でした。「歌川のお陰で支局長になった」なんて編集局内のやっかむ声も聞こえてきました。歌川令三さんはワシントン特派員を経て、経済部長をやり、当時は取締役編集局長というポジションで、「将来は社長」ともウワサされ、外部でも大蔵省の政府税制調査会の委員などに指名されるなど、いわば社内では飛ぶ鳥を落とす勢いの人でした。ぼくは歌川さんにわりと可愛がられ、社内では“歌川派”と目されていたと思います。
Q.ご家族の反対はなかったのですか?
女房のおやじさんが八幡製鉄(現日本製鉄)勤務のサラリーマン、九州・広島、名古屋、東京と転勤族で、女房は転勤は家族でいくものと考えていましたから、転校は当たり前。辞令を受けた翌日から、子供の学校の転校手続きなどの準備を始めたのはビックリしましたね。当時、ぼくは子供が4人もいて、いちばん上が小2で、その下が小1、幼稚園2人でした。毎日新聞甲府支局は県庁のすぐ近く、子供の小学校も支局と目と鼻の先。甲府駅から歩いて7,8分、市内のメインの通り「平和通り」に面した甲府警察署のある一角でした。たぶん県有地を払い下げてもらったんじゃないかと想像してますが----。屋上には大きな「毎日新聞甲府支局」と書いた高さ3メートルはあったんじゃないかなー、大看板が立てられていました。目立ちましたねー。
ビルは3階建て、その3階に支局長住宅がありました。これがコンクリートの打ちっぱなしのところで、とてもじゃないけど住むようなところではなかったです。夜なんか窓をあけてるとコウモリが飛んでくるんですよ(笑)。掃除もたいへんでした。それと隣の警察のパトカーの朝から晩までサイレンを鳴らしての出入りの音がうるさくて(笑)。ほうほうのていで3ヶ月で逃げ出しました。
支局から7,8分、離れたところに当時だれも住んでいなかった「次長社宅」といわれる家があってそこに移りました。2階建ての築30年か、もっと古いかもしれない屋根にとんがり帽子のついた西洋館でした。できた当初は有名な建築だったらしいです。畳を替えるなどかかなり手を入れました。その経費は会社が出してくれたと思いますが。子供の学校が近いのは助かりました。
◇甲府に家を買って地元に定着、東京に異動後も“半身赴任”
実はその一年後位かな、市内の武田信玄の武田節で有名な「躑躅(つつじ)ヶ崎の城跡にある観光名所の武田神社近くの大手町というところに、東京・杉並のマンションを売って一戸建ての家を買いました。昔、甲府支局管内の大月通信部にいた記者が辞めて、市内で不動産屋やってたんですね。その人の世話で、100坪強ある広々とした平屋を買ったんです。広い部屋は5つあって、庭が30坪くらいでした。
そこに引っ越して、子供たちはみんなそこで育って、一番下の子が高校を卒業するまで10年近くいました。1988(昭和63)年4月に、甲府支局から経済部に異動になったのですが、そのあとも家族は甲府に残して、ぼくは毎週東京から甲府に戻るという生活でした。金曜の夜に帰って、月曜の朝早く出社してました。金曜は宴会の二次会は遠慮して、午後9時頃新宿から最終の「特急あずさ」に乗って、甲府では妻がクルマで迎えにきてくれました。単身赴任ならぬ半身赴任と言ってました(笑)。
Q.お仕事の方はいかがだったのですか?
ぼくはものすごく恵まれていました。デスクに、秋山壮一君という人がいました。年齢的にはぼくと同じでしたけど、数年前に亡くなりました。彼はもともと山梨時事新聞というところにいたのですが、昭和44年頃、同社は事実上倒産、現在は唯一の県紙の山梨日日新聞に事実上吸収され、時事新聞からは社員が各社に流れて、毎日に来た人は10人は下らないんじゃないかな。秋山君は青森支局にいっていたのかな、そのあと甲府支局のデスクをやってました。地方の支局の中でも秋山というデスクは優秀だと言われていました。
Q.佐々木さんが赴任される前からデスク?
そうです。半年くらい前からかな。おそらくぼくを支局長に出す側の歌川さんの息のかかった山田尚宏経済部長も、ここだったら“佐々木支局長”でも大丈夫だと踏んだのでしょう。本当に秋山デスクには助かりました。優秀なデスクでした。原稿のさばきはいいし、地元紙にいたわけで地元のことは全部知ってるし、いろんな県内政治の動きなんか本当によく知っている人でしたから。だから、若い支局員の原稿のチェック、事件事故の取材の指揮だとかは、安心して彼に全部まかせてました。人柄も温厚でした。
このヒアリング受けるので、当時の一番若かった隈元浩彦君に秋山デスクのことを聞いたんです。隈元君は前「サンデー毎日」編集長でした。「秋山さんに連れられて深夜、小さな殺人事件の現場に行きました。『現場百遍』という言葉を教えてくれました。着任して間もないころ、オロオロしているのを見るに見かねて『クマちゃん、いいか、新聞記者は人間が良くても、ネタを取ってこなくては生きていけないんだ』」と諭したというんだな。初めて聞きました。
ホント、クマちゃんは入社当時、素直で人間的に誰からも好かれる人なんだけど、図々しいところがなく謙虚で、押しが足りないところが当方から見てもあって、新聞記者として大丈夫かなあと思ったこともあったんだけど、秋山君が裏でこんなふうにコーチをしていたなんて、知らなかったなあ。報道し終わった殺人事件の現場で、深夜、秋山、隈元記者の二人がたたずむ姿を思い浮べると、新人記者をそだてようという秋山さんの執念を感じて、なんかウルウル来るなあ。秋山さんのお陰でクマちゃんは大成したと思うなあ。
Q.次回改めて伺いますが、当時の支局員には現在の毎日新聞の社長の松木健さん、編集委員でボクも愛読している週一回コラム「掃苔録」で終活問題や防衛問題など幅広い原稿を書いている防衛大出身の滝野隆浩さんなど多彩な人材がいたようですね。佐々木さんの時代にこんな優秀な記者が出たのは、“佐々木支局長”としての指導があった?
そうなんだよね。不思議なんですよ。この校條さんのインタビューを受けて初めて気がついたんですが、彼らを筆頭に支局にいた若い記者たちの事件・事故や苦労や活躍状況、原稿の記憶などほとんど覚えていないんですよね。結局全部、秋山デスクにお任せしていたんだということに気が付きました。クマちゃんの話なんかは、そのいい例ですね。彼らを育てたのは結局、秋山さんだと思います。その意味で支局長失格ですね。逆に彼らは自由奔放に活躍できたから良かったのかな(笑)?=以下略