2022年11月16日
元サンデー毎日、鈴木 充さん(73)が「東京レガシーハーフマラソン2022」に出場して、新旧国立競技場を走った!
この夏を、走って過ごしました。5月上旬、毎日新聞に「東京レガシーハーフマラソン2022」の初開催と参加ランナー募集の記事が載りました。「もうひとつの東京マラソンはじまる」とうたい、東京オリンピック・パラリンピックのレガシーとして、新国立競技場をスタート・ゴールに都心を走るハーフマラソンです。大会は10月16日。なぜか「よし、走るか」と思い立ちました。私はヒマだったのです。
私は3月末で地元の多摩市教育委員会教育委員を退任したばかりでした。2期8年の在任中、いじめ問題やコロナ感染対策、英語授業の小4スタート、一人一台のパソコン授業等々が取り組んだテーマでした。教科書選定も2度しました。各教科書会社の教科書100冊ほどを読み込み、多摩市立小中学校で使用する各教科の教科書を決めるのです。傍聴定員を大幅に増やした教育委員会で、推薦理由を詳述し、他の教育委員と意見を交わします。小中学生がその教科書で勉強しますから、責任があります。また、小中学校を「教育訪問」して、授業参観や給食を一緒に食べながら交流しました。そのほかにも、柳田邦男さんを委員長にした多摩市立中央図書館の基本理念作り、多摩市総合計画の基本計画策定などにも加わりました。
そうです、これは相当楽しい仕事でした。それが退任とともに消えてしまった。闘病生活丸8年になる妻への手助けは欠かせませんが、あとは無為徒食の日々になりかねません。そこに、毎日新聞が「東京レガシーハーフマラソン2022」のニュースを教えてくれたのです。無為徒食は、まあ受け入れてもいいのですが、新国立競技場のトラックを走ってみたいと強く思いました。
旧国立競技場は2度走りました。そのうち1回は新宿区民マラソン大会10キロレースで、勝又啓二郎、仁科邦男、田中真の諸先輩が一緒でした(この時は40分00秒ジャストで爺さんの部4位)。今回、「東京レガシーハーフマラソン2022」で新国立競技場のスタートラインに立ち、走る。新旧国立競技場を走った男、になるチャンスです。ただ、都心を走る市民マラソンは人気があり、募集定員は15,000人ですが、高い倍率の抽選があります。5年前に走った東京マラソンも、9回目(つまり9年目)の申し込みでようやく当選しました。今回も抽選ではじかれる確率大いにありです。一般の部の募集は都民枠(500人)と一般枠(11,170人)に分かれ(残り人数はエリートや車いすの部など)、都民枠の落選者は自動的に一般枠に回って、再度抽選対象になるルールです。「都民エントリー」募集初日の5月18日、「まあ、応募だけはしてみるか」とご気楽に申し込みました。
6月10日、主催者から届いたメールには「落選」とありました。落胆はなく「しょうがないな」程度でした。練習はしていないし、体は重いし、大会当日にはもう73歳10か月を過ぎています。自分ではそれほど思わないのですが、でもお年寄り。ハーフマラソンを簡単に走れるわけがないのです。落選は好事でした。
しかし、誰が言ったか好事魔多し。24日に届いたメールには「当選」とありました。一般枠で参加候補者に選ばれたのです。翌25日、メールの指示に従い参加料20,700円、手数料1,097円をクレジットカードで支払い、参加登録しました。それにしても参加料が高い。この10年の高騰ぶりはあきれるばかりで、定員割れの市民マラソン大会もあると聞きます。
さて、ここから先は「アナログ爺さん、できるかな?」の世界です。すべてがスマートホンによるインターネット手続きなのです。そもそも最初の大会要項入手そのものがパソコン検索でした(これ以外の方法なし)。その大会要項の「申込方法」欄には「インターネットによる申込」とあり、わざわざアンダーラインが引いてありました。何だこれはと思いながら、私は当然のように大会要項を紙にプリントしたのでした。
日を追って主催者からのメールが次々に届きました。当時、私はパソコンと「らくらくホン」を使っていましたが、スマートホンでないとアプリがダウンロードできないのです。やむを得ずドコモショップに行きスマホを購入しました。参加仮登録と本登録、新型コロナ対策のPCR検査日時登録、体調管理アプリ登録と日々の体温・体調送信、正式な大会案内の配信、アスリートビブスの引き換え日時の登録、新国立競技場入場に欠かせない「電子チケット」のダウンロードと顔写真登録。とにかくすべてがスマホありきで、そうこうしているうちに一日が終わってしまいます。結局、大会当日までスマホとの格闘が続きました。
当然、「練習しなくては」とは思いました。しかし「アスリートビブスって何だあ?ゼッケンのことか?ゼッケンと言え!」と腹を立てているうちに、6月が過ぎて行き、大会まで残るは実質3か月ほどになっていました。7月、8月、9月。練習期間は真夏です。当初、キロ4分ペースでレースプランを立てました。今より少し?若いころは走れました。しかし………冷静になって出した結論は「制限時間内完走」でした。7月は走れる体作り、8月は長い距離を走り切る、9月はスピード練習、と計画しました。
自宅から700メートルほど東方、多摩市と川崎市の都県境の森に山道があります。古代の官道で、万葉集にも出てくる「横山の道」です。防人の任に就く東国の人たちが、故郷を振り返り別れを告げた「防人見返りの峠」が残されています。「横山の道」はナラやクヌギ、カシワ、コブシ、サクラなどの木陰が真夏の日射しを遮え切ってくれます。7月上旬から中旬までは「横山の道」を8キロほど、ゆっくり走りました。脚は力なく体は重いままでした。
7月中旬以降、距離を伸ばしました。「多摩一周コース」と名付けた10キロです。多摩ニュータウンの街並みと大山、丹沢、富士山、高尾山、陣馬山、雲取山、大菩薩嶺、御岳山などが彼方に広がるコースです。途中、4キロから5キロにかけて箱根の峠道のような急坂があります。6キロ地点の神社は多摩ニュータウンの最高標高点で、明治天皇がウサギ狩りで行幸の折、野点をしたと伝わります。
気温は30度を超え35度になろうかという日もあります。対策として夜明け前後の練習スタートにしました。例えば、7月18日午前4時55分、20日午前3時39分、21日午前4時38分スタート、といった具合です。順調と思っていた同月22日、4回目のコロナワクチン接種をしました。2日間休み、その後一週間は歩くような走りで、体は「初期化」されていました。
夜明け前の暗がりを走り出すと、日中とは違う光景が見えます。決まって窓の明かりが点いている高層団地のいくつかの窓。同じ時間、同じ場所で追い越していく大手パン会社のトラック。コンビニ前でトラックから荷下ろしする人。夏の早朝の、なじみの光景になりました。
驚きの鉢合わせもありました。8月1日、午前3時38分スタートで多摩一周コースを走りました。2キロ地点からは多摩川支流の乞田川に沿って、遊歩道を走ります。乞田川との間は高さ1.2メートルほどの網目状のフェンスで仕切られています。途中にあるキリスト教会に差し掛かった時、フェンスにしがみついている何者かに気づきました。暗いし近眼と老眼だし良くは見えませんが、そいつは頭と前足を下向きに、お尻と尻尾と後ろ足を上向きにして、つまり逆さまになってフェンスを下りようとしていました。私は曲がりなりにも走っていますから、距離はどんどん詰まります。そいつは下りるのに夢中で、私には全く気づきません。距離1メートル。そいつは逆さのままようやく頭を上げ、私を見ました。そいつは目が合ったとたん、フェンス上部に向かって後ずさりし始めました。普通は飛び降りて逃げるはずですが、そいつはフェンスを上に向かって後ずさりです。何というやつだ!
警戒心の薄い妙なヤツなので、関わるのは止め、走り過ぎました。正体不明の四足動物ですが、そいつの額から目の間にかけて白い模様がありました(ハクビシンかなあ)。
長距離走に取り組んだのは、月が替わり日にちが経った9月10日です。計画よりもずいぶん遅れていました。ハーフマラソンの距離に合わせ、自宅近くの都道・尾根幹線を中心に往復22キロのコースを設定しました。多摩ニュータウンは多摩丘陵に造られた街で、長いアップダウンの坂道がたくさんあります。このコースもアップダウンの連続です。長距離走の合間にジョギング入れて疲れを取りながら、計8回走りました。これは大いなる誤解だったのですが、体の切れが良くなりました。
長距離走の途中、台風の大雨に見舞われずぶ濡れになった日がありました。上り坂の歩道を川のように雨水が流れて来ます。夫婦らしい男女を追い越した途端、「こんな日にどうして走るんだろうねえ」とあきれ声が聞こえ、自分でもうなずきました。
別のある日、夕暮れ時になり足元が暗い登り坂で、右足つま先を路面にひっかけて前倒しに転倒しました。あわや眼鏡ごと顔面強打の寸前、かばい手が間に合って体を支えました。犬と散歩する人、公園で遊ぶ家族連れ。全身から力が抜けた私。住宅地に囲まれたチャペル風のウエディング式場を過ぎ、JR四谷駅そばから移築した「四谷橋」を渡り、走り続けました。気分は「泣きっ面」でした。
大会開催月の10月が来て、ようやくスピード練習に取り組みました。家近くの公園に一周500メートルのジョギングコースがあります。そこで100メートルダッシュにトライ。何度ダッシュしてみても、15秒どころか20秒も切れません。これが73歳の現実でした。スピード練習は諦め、ペース走にしました。諦めがいいのは73歳の特権かもしれません。結局、計画通りには走り込めないまま大会当日が迫りました。
最終手続きは10月14日。堤哲さんに誘われた社会部旧友ゴルフを断り、事前受付のため午前11時に新国立競技場に行きました。入場ゲートには体の締まった若者(例え50歳代でも私には若く見える)たちが列を作っていました。入場ゲートで係員に運転免許証を示し、顔認証装置にスマホ(電子チケット)をかざし、実物の顔を認証用の枠内に映し、本人と認証されて新国立競技場に入りました。コンコースに設けた受付会場でPCR検査などの手続きを済ませました。手渡されたオレンジ色の大会参加記念Tシャツの胸には、黒い文字で「TOKYO LEGACY HALF 2022」と染め抜いてありました。
大会当日の10月16日午前6時過ぎ、地下鉄大江戸線国立競技場駅の改札を出て、長い階段を上がり、朝の神宮外苑に出ました。国立競技場が威風堂々、眼前にそびえていました。一帯は、どこから湧き出したかと思う大勢の市民ランナーで溢れていました。長い列に並び、入場ゲートで手荷物検査と電子チケットのチェックを受け、二階コンコースで衣服を脱ぎ、荷物を預けました。ひと息つく間もなく、新国立競技場の待機ブロックへ移動が始まりました。スタンド真下の薄暗い地下通路を通り抜けた先に、天を覆うかのような屋根と高くそびえるスタンドが現れました。足元には新国立競技場のアンツーカートラックがありました。初めてトラックを踏んだ瞬間、私はその場で足踏みし跳ね飛んで感触を味わいました。それまでのレースの激しさを物語るトラックのスパイク痕。400メートルのコースを際立たせる白線。走れ、走れと呼びかけてくるアンツーカートラック。そう、ここが新国立競技場なのだ。トラックの前にも後ろにも、国立競技場の外周にも、スタートを待つ15,000人の市民ランナー。午前7時40分、私たち第一ウエーブの整列が終わりました。曇り空の上空を取材のヘリコプターが飛び、スタート時間はすぐそこです。さあ、みんなで走ろう! 行くぞ!
午前8時5分、スターターの小池百合子東京都知事の号砲で、第一ウエーブのランナーが一斉に動き始めました。私はスタートラインから150メートルほど手前のトラックでスタートを待っていました。スタートライン目指して前後のランナーとともにゆっくり、ゆっくり歩いて、やがて速歩からジョギングになって、新国立競技場のすべてのランナーが動き始めました。スタートラインを過ぎ、私は新国立競技場のトラックを強く蹴って走り出しました。この瞬間、とうとう新旧国立競技場を走った男になったのです。
新国立競技場のトラックを50メートルほど走り、左手のゲートを抜けて外苑西通りへ。秋の神宮外苑が広がりました。何という開放感。国際マラソンの先頭に立ち新国立競技場を飛び出したかのような快感です。外苑西通りを北上し富久町西交差点を右折して、靖国通りの長い下り坂を走りました。左手の防衛省前を走り過ぎる時、三島由紀夫の事件を思い出しました。51年前、私は大学4年生でした。三島が立てこもっているその界隈を、機動隊にせかされながら訳もなくウロウロしたのでした。靖国通りから外堀通りに出て、市ヶ谷から飯田橋へ。ランナーは自然に集団を形作り、ほぼ同じペースで走っています。間を縫って追い越していくランナーが何人かいました。「以前はああやって走っていたなあ」と思いながら「制限時間内完走」と言い聞かせました。右手に外堀と中央・総武線、サクラの土手が見えます。サンデー毎日編集部で一緒だった岩見隆夫さんや岸井成格さんたちと花見をした土手。あれから何年経ったかなあ、酒の買い出ししたなあ、と考えながら走っているうちに、飯田橋の5キロ地点に差し掛かりました。想定タイムより5分ほど早い通過です。市ヶ谷の下り坂があったし、まあ、順調なペースです。
水道橋を右折して白山通りを南下、神保町交差点で左折し靖国通りへ。ここは毎日新聞社に近く、なじみの街です。須田町交差点で右折し中央通りを日本橋方面に向かいました。神田駅を過ぎ、三越、高島屋など日本橋の風景が現れました。日本橋北詰手前で折り返し、ほどなく10キロ地点を過ぎました。想定タイムより依然5分早く快調です。
同じコースを神保町まで戻りながら右手を見たらレストラン「ランチョン」がありました。ランチョンと言えばビール。ゴールしたらビール。この走りはビールへの走りだ。神保町交差点を左折して白山通りへ。共立女子大、如水会館が近づき、正面に皇居のお濠が現れました。その時になって、そうだ、毎日新聞社の通りだ、毎日新聞社だ、思い至りました。そろそろ疲れていたのです。
白山通りの真ん中から見上げた毎日新聞社は、立派なビルでした。堂々として、たじろぎのない毎日新聞社。好きだなあ、毎日新聞。いいえ、泣きそうになったとは言いません。でも、心は何かに揺さぶられていました。それも数十秒のこと、左折して内堀通りに入りお濠沿いを走りました。右手に皇居、左手に大手町や丸の内の高層ビル群。東京の、ここにしかない大都会の光景です。大手門の手前で折り返し、周囲を見ると、歩いているランナーが目立ち始めていました。私も左脚にダメージが生じていました。痙攣の予感があるのです。やはり練習不足でした。
復路、再び毎日新聞社に通りかかりました。私は毎日新聞社に頭を下げました。スピード落とします、このままでは完走できません、すみません………。水道橋を左折し、東京ドーム付近で15キロを通過しました。この5キロは想定より1分遅いタイムでした。もう恥も見た目もなく、足元に視線を落とし深く前傾して、歩幅を狭く市ヶ谷の上りに向かいました。脚は上がらず、スピードも落ちる一方です。ただ、苦しくはありません。応援の人々の声も表情も良くわかります。私はこの時、市ヶ谷の坂を克服したのではないか、と思ったほどです。富久町西交差点を左折して、声援は「残り1キロ!」に変わりました。まだ一度も歩いていません。完走するんだ、と強く言い聞かせて新国立競技場の取付道路にたどり着きました。
やや暗いスタンド下の走路を潜り抜けると、アンツーカートラックが現れました。左斜め前方150メートルにゴールが見えます。大会記念のオレンジ色Tシャツ姿など思い思いのスタイルがトラックに溢れ、中にはサンタクロース姿まで走っています。ランナーみんながゴールに向かっていました。ラスト100メートルの直線を、私は清々しい気分で走っていました。晴れがましく、誇らしく、苦しくもなく、ゴールラインを走り抜けました。
11月中旬、主催者から公式記録が配信されました。タイムも順位も人生最低記録でした。それでも、目標タイムから2分ほど遅れただけで完走しました。もちろん、制限時間内完走です。市ヶ谷の急坂を克服したかと思ったのは、錯覚でした。最後の5キロは目標タイムよりキロ1分ほど遅くなっていました。ただし、新国立競技場を含む1キロ少々は、目標のペースを取り戻していました。順位ですが「〇800位」でした(〇は千の位)。「800」は末広がりの、縁起の良い順位ではないでしょうか。めでたいなあ。
私の73歳の夏は、こうして過ぎて行きました。
(鈴木 充)
鈴木充さんは1971年入社。サンデー毎日編集部、社会部、宇都宮支局長、総務部長、事業本部次長兼文化事業部長など歴任。