2023年5月25日
生粋のワセダマン倉田眞さんと75年入社西部本社組が東京で“同窓会”
先日、東日印刷で思わぬ毎日新聞OBと出くわした。67年入社・元西部本社編集局長倉田眞さん(78歳)。東日印刷の社長武田芳明さん、元政治部長山田孝男さん、元東京本社社会部長玉木研二さんは、いずれも75年入社の西部本社組で、倉田キャップに鍛えられたというのだ。
武田社長は、毎日新聞グループホールディングスの取締役管理統括も務め、山田孝男さんは毎週月曜日の看板コラム「風知草」の筆者、玉木研二さんは定年退職後も客員編集委員としてコラム「火論」を担当していた。
勇将の下に弱卒なし、である。
東日印刷専務西川光昭さん(81年入社)は大阪府警・警視庁クラブキャップを務めた事件記者で、西部本社にも在籍、倉田さんの薫陶を受けている。元サンデー毎日編集長潟永秀一郎さん(85年入社)も西部本社育ちで、現在は「東日印刷新規事業担当T-plusマネジャー兼プロモーション本部事務局長兼T-proシニア・エディター」の名刺を持つ。この2人も同席していた。
「西部本社の歴代編集局長で、西部本社から一歩も出なかったのはオレだけ」と倉田さんは胸を張った。ネットを検索したら、倉田さんの講演録が出てきた。6年前に早稲田大学の校友会「料飲稲門会」で講演したものだ。
倉田さんは、生粋のワセダマンである。
《1962年政経学部政治学科に入学。郷里は富山で田舎者なりに早稲田で都会生活を楽しもうと早稲田を選びました。
これでも当時は超狭き門だった「大隈奨学金」受給の特待生で授業料免除でした。
でも“悪い先輩”に引きずり込まれた学生運動と好きな映画鑑賞、バイトで忙しく講義はほとんど顔出さず、1年次の単位取得はほぼゼロ。2年次の4月に学部長に呼び出され「大隈奨学生では過去最悪。打ち切り」の宣告を受けてしまう。
かくして卒業まで5年かかりました。4年次の学費値上げ反対の「早大闘争」時にバリケード封鎖して試験が無く、全科目レポート提出になり、まじめな友人のレポートを写させてもらって全単位を取得してなんとか5年で卒業。
闘争のおかげで、これが無ければおそらく中退もしくは除籍だったと思います。「早大闘争様さま」だなぁ。
したがって恩師は皆無ですが、運動やサークルの友人、先輩とは互いの下宿を行き来し泊まり、よく飲み語り、議論しました。かなりの人が亡くなりましたが、健在の方とは今も深い交友を続けています。
そんな学生時代で成績は「優」など皆無。親はなんとか就職をと迫るし、成績不問で入社試験を受けられるのは新聞社とか出版社くらい。両方受かりましたが1967年毎日新聞に入社しました。九州の西部本社に配属され、事件記者を4年。仕事の傍ら、水俣病患者支援運動、当時燃え盛っていた反戦運動、社内の組合活動にもかなり深く関わり、同僚がすすめる「東京への転勤」など希望せず、いざとなれば退社して水俣に住もうかとも考えていました。
ところがかみさんにつかまり家庭を持つとそんなことも言っておれず、ずるずると居ついてしまいました。
事件担当のキャップを小倉と、福岡の2か所で務めたのは私が初めて。事件担当デスクも3年間務めるなど、あれだけ嫌った警察取材にどっぷり漬かった社会部記者でした。
40代でデスク(副部長)として取材の指示、指揮、一線の記者の原稿チェック、直しの仕事を9年間もやりました。これも毎日新聞では最長不倒の伝説があるそうです。
仕事の中身はキャップ時代の事件、司法だけでなく、政治、選挙、話題物など幅広くなりました。
40代後半に報道(社会)部長、50代に編集局長をそれぞれ3年ずつ務めましたが、月に2日も休みがあれば御の字の多忙な日々でした。
でも部長とか局長になると管理職で、自分ではコラムを書くぐらい。新聞記者の醍醐味、刺激、面白さはデスクまでだと実感しました。
福岡、小倉勤務が各3回。大分で5年半、熊本はデスクと支局長と2回の勤務。水俣病の運動との付き合いもあり、熊本には友人、知人が多く今回の震災(2016年4月14日)でも見舞いや安否確認で大変でした。とにかく九州には記者仲間だけでなく、取材先も含め数多くの知り合いがいて今も年に数回は訪れます。
記者時代に感動したことではやはり水俣病の患者さんとの出会いです。入社3年目に現地を訪れ、チッソが水俣湾に垂れ流した水銀に侵され、歩くことも話すこともままならぬ患者さんを目の当たりにした事です。
今年(2017年)5月1日に公式確認60年ですが、母親の胎内で水銀に侵された「胎児性患者」がもう60代になり、よく回らない口でチッソ、国、県の責任を追及し、救済を今も訴えています。
1970年以来、水俣病との付き合いは40数年になりますが、未だに被害を訴え救済を待つ数千人の人々がいることを今も肝に銘じています。
石牟礼道子さん(2018年没90歳)や水俣病事件に関わった方との交流は今も続けています》
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私は途中で失礼したが、宴は延々と続いたと思われる。
(堤 哲)