元中部本社代表・佐々木宏人さん ある新聞記者の歩み 30 経済部長の仕事は日々飲むことだ?! 抜粋
(インタビューはメディア研究者・校條 諭さん)
全文は https://note.com/smenjo/n/n686c78351a03
佐々木宏人さんのオーラルヒストリーも30回目に達しました。今回は経済部長になった佐々木さんが、日々どう動いていたのか、どういう人たちとかかわっていたのかなどをお聞きしました。その中で「交番会議」などというおもしろい言葉も出てきました。
目次
◆経済部長の仕事は、大号令より部内融和
◆当時はバブルの崩壊過程
◆経済部長の役得?
◆経済部は日々こう動く
◆女性記者と“オッサン”
◆えっ、新聞社の中に交番?!
◆経済部長の仕事は、大号令より部内融和
Q.佐々木さんは1991(平成3)年10月1日付けで経済部長に。
経済部長になったのはちょうどバブル崩壊の1年前の頃です。具体的な数字を改めて調べると、東証株価は89(平成元)年12月29日に付けた株価3万8,915円から半額の2万円を割るのが1990(平成2)年10月。時価総額が590兆円(これは世界一でした)から319兆円になりました。1993(平成5)年4月までの2年半のぼくの在任期間は、失われた10年の始まり―なんてその後言われたけど、事件的にはバブルの後処理の時代で、銀行頭取が自殺したり、証券会社、不動産会社の社長が逮捕されたりで、例えていうならば、経済部があおった結果、その後始末を社会部が担当かつ活躍した時代とでも言いましょうか。経済部はあまりデカイ顔をできなかった時代のような印象だな。
それよりぼくの経済部長就任の1年前には、東西ドイツが国家統一を成し遂げて、その1年後にはソ連邦が崩壊(1991年12月)しましたね。世界史的に見れば、本当に戦後の“東西対立の冷戦時代”から、“アメリカ一極集中”の、世界体制の大変化の時代が出現しました。外信部活躍の時代でもあったと思います。
日本では昭和天皇が崩御(1989年1月)し、今の上皇が即位、時代は「平成」になりました。戦後半世紀、経済成長の時代、バブルの時代をへて、所得も上がり国民も海外旅行に普通に行ける“一億総中流”の時代になっていました。このままで行けると、だれもが思っていたと思うんです。あの頃、その後の日本のグランドデザインを描く政治家、官僚、ジャ―ナリスがいれば、“失われた10年”が今に至るまでの“失われた30年”にはならなくてすんだのにと思います。ぼくらの責任も少しはあるんだろうな。(略)
Q.当時の毎日新聞経済部の体制って朝日、読売なんかと比べてどうだったんですか。
事実上の倒産の危機と言われる新旧分離(1977(昭和52)年)を経て、希望退職も募って、新規採用も減りましたから、編集局も要員は各社に比べてかなり少なかったと思います。社会部、政治部各部とも、朝刊の締め切り後の深夜、編集局長席の後ろで酒を飲んでいると、その嘆きを聞きましたね。
経済部も要員的にはぼくのイメージですが、まず読売の半分、朝日の3分の2という感じではなかったかな。例えば各社、デスクが6人いたとすると毎日新聞は4,5人しかいないとかね。具体的には記者の配置も経済産業省は従来3人だったのが2人、大蔵省もぼくが回っていた当時は4,5人、それが2,3人。民間のクラブでも兼務を増やしましたね。例えば商社担当と商工会議所担当が1人、経団連クラブでも各社1人ずつの鉄鋼担当と、化学業界担当がカケモチするとか、なんかそういうふうなことでやりくりをしてましたね。要員は少なかったですが、まあ、紙面的には他紙に負けてはいなかったと思いますよ。
やはり有名経済学者が健筆をふるう、出版局発行の経済週刊誌「週刊エコノミスト」編集部との人事交流を行っていたことが、「毎日新聞経済部」の評価を高めていたこともあると思いますね。(略)
Q.経済部長が変わると、新しく部の方針と言いますか、あるいは、こういう企画を目玉にするぞとか、そういうものを打ち出すもんですか?
ぼくは少なくとも、そんなことは外に向かっては言いませんでした。部内融和っていうのがすごく大切だったので、そんな大号令かけて、これをやれ、とかなんとかっていうことはなかったですね。ただそのためにも部員との“ノミニケーション”が大事で⋯⋯。よく飲んだなあ、2年前、肝臓がんの手術をやったけど、医者から手術中「大分若い時から、肝臓を酷使してきましたねえ」といわれました(笑)。それだけじゃなく、外部の経済人との飲み会も頻繁でしたからね。でも経済部自体、他社より少ない人数で経済ニュースを追っかけているわけで、社内抗争のような余計なことに神経を使わないで、のびのび取材が出来るような体制を取ることが大切と考えていたと思います。大きな特ダネを他社に抜かれ、編集局長に怒られることはありませんでした。
だけど今から見ると、ぼくが経済部長になったあの当時、その前後の数年間、岩波ブックレットの年表「昭和・平成史」(2012年刊)を見ると、世界、日本ともに激動期の時代。冷戦の終結と共に起きるイラン・イラク戦争(1980年)、1989(平成元)年の天安門事件後の中国の改革開放路線の進行、同じ年、日本ではリクルート事件、消費税の導入、自衛隊初のペルシャ湾への海外派兵、こういう中でのバブル崩壊、新聞紙面的にはニュースの一つっていう感じじゃなかったかな?
◆当時はバブルの崩壊過程
Q.経済部長に就任された時は、すでに崩壊過程だったのですね。
崩壊過程、そうそう。だけど、まだその時は、銀行の頭取が自殺するとか、証券会社が倒産するなんていうような、バブルの膿(ウミ)が出る深刻さはなかったという感じがします。とにかく地価は1983(昭和58)年を100とすると、91年には350、3.5倍にもなった。「日本の地価全体でアメリカ全体の2つぐらい買える!」なんて今考えると、馬鹿な話が真顔でいわれていたんだから⋯⋯。それが一挙に6年後の1997(平成9)年には、もとの100に戻ってしまいます。『検証バブル 犯意なき過ち』という日経が2000(平成12)年に出した本なんかを見返すと出てます。そりゃ大変ですよ。あれだけ不動産価格が下がれば、土地を担保に金を貸していた銀行、証券は、そりゃ持たないよね。
四大証券の一つだった山一証券の野沢社長の「従業員は悪くない!」という涙の会見で記憶に残る、山一証券自主廃業は97(平成9)年11月ですね。同じ月に三洋証券倒産、北海道拓殖銀行が経営破綻して北海道銀行への吸収合併。考えてみるとぼくが経済部長をやったのは93(平成5)年までだから、まだ深刻な感じはそんなになかったような感じがします。
なにせ、ぼくたちの駆け出しの経済記者は都市銀行13行(第一銀行、三井銀行、富士銀行、三菱銀行、協和銀行、日本勧業銀行、三和銀行、住友銀行、大和銀行、東海銀行、北海道拓殖銀行、神戸銀行、東京銀行)と言っていたのが、今は、4行(三菱UFJ銀行、三井住友、みずほ銀行、りそな銀行)だけですからね。13行で名前が残っているのは、「三菱」、「三井・住友」だけだもんなあ。債券発行を主とした大蔵省と並んで就職人気の高かった日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行なども消えてしまいました。まさか“銀行の銀行”と言われた興銀が、吸収合併に追い込まれるなんて、夢にも思わなかったなあ。