2017年10月30日
永田ラッパにスカウトされた「大魔神」 追悼・橋本力(元毎日オリオンズ球団)
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毎日オリオンズOB会に土井垣武や西本幸雄、山内一弘、山根俊英らが飲み食い集っていた頃、僕は毎年「エピソードを確認」するのが楽しみだった。ある時、植村義信と橋本力が並んで座していた。畳の宴席なのに橋本力だけは特別扱いで椅子に座っていた。もともとデカイ図体は聳えんばかり。「腰痛でね」。隣の植村義信が言う。「大魔神ねえ(橋本力の仇名)、俺と甲子園は同窓なんよ。そして、毎日オリオンズ入ったのも同期生やん」。
大投手・植村義信は芦屋高校で1952(昭和27)年夏の甲子園(第34回大会)優勝投手。橋本力は同じ大会で函館西高校(北海道立の公立高校)の外野手。そのときの函館西は メチャ強く話題を呼んだ。1回戦岐阜工と延長12回0-0引き分け、再試合7-1で勝ち、2回戦7-3愛知高校を破る快進撃。準々決勝で成田高校に負けたのだった。橋本は同年のセンバツ(第24回大会)にも出場、初戦で同大会優勝の静岡商業と対戦し田所善次郎投手を苦しめながら0-1で敗退した(惜しい!)。
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ドラフトなんぞナイ時分の1953(昭和28)年「超」高校級の植村と橋本は揃って毎日オリオンズ入り。カンペキに即戦力だった。後楽園球場で毎日オリオンズの試合を観戦しまくっていた僕は「超」に近い「鈍」高校生。2歳年上の橋本は「背番号1」。どんなヤツか。よよっ。橋本力が大遠投……ホームタッチアウト! 三塁からの走者をゲッツーで射止めた喝采プレーを見せた。「すっげー。肩の強いヤツが入ってきた」。オリオンズはこの年から別当薫監督になっていた。土井垣は東映に移籍するなどチーム若返り。1957(昭和32)年、橋本力は119試合に出て56安打の活躍だったが怪我で二軍落ちした。通算盗塁が30個なんて素晴らしい。いい選手に育ちそうだ、と思いきや。
ところがどっこい。ファーム暮らし幸いを呼ぶとはツユ知らず。オリオンズのオーナーが永田雅一(ラッパ)となり、チーム名も「大毎オリオンズ」になった。何にでも顔を出すラッパのこと。春のキャンプを訪れた。ラッパがあちこちを見て、「おい、あそこにいる顔のゴツイの、なんっちゅうヤツだ」。「橋本力です」「おーい、橋本―っ。こっち来いっ」。呼ばれた橋本がラッパの前に来た。「キミぃ、いい面(ツラ)してんじゃあねえか」。
折も折。ラッパ大映はベストセラー小説「一刀斎は背番号6」(五味康祐作)の映画化を考えていた。本物の野球シーンを指導する本物の選手が必要となり、ラッパが「橋本力しかねえよっ」。社長室に呼ばれて「キミぃ、やってくれっ」「どうせ、今シーズンは一軍には上がれんだろ」。一発で決まった。ついでに一刀斎チーム選手役でも出演した。180センチ近い肉体と“侍顔”が受けた。
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橋本力は映画俳優(京都撮影所専属)になる。別のハナシでは「一刀斎は背番号6」撮影中、フライを捕球する際に大怪我をして、大映側が気の毒に思い俳優業を勧めたとも言われるが、僕が聞いた本人のハナシでは「ラッパの誘い」に決断したのである。ラッパの先見! まことに大当たり! そのとおり、確かに橋本力は大毎オリオンズになったシーズン(1958年)、試合数も激減して13安打どまりだったのだから。
いやあ、オリオンズOB会の宴席でも「その面構え」は大いに目立った。彫が深く目玉が大きい。体格が立派。力が強い。声が太い。まさに俳優。そうは言っても演技はシロト。当初「三人の顔役」「ひげ面」「悪名市場」などに出演したが、ほとんどは悪役専門。だが、ツラの魅力が利して「座頭市血笑旅」「眠狂四郎魔性剣」……と仕事は増えた。そうしてやってきたのが主役の座! 本人が大笑いして言っていた。「うれしかったですよオ。あんとき、ね。大映映画の主演だもんね」。
「それがよ……それがよ。ヌイグルミの中に入るんだとは知らんかったから、びっくりしたねえ」。特撮時代劇映画・大魔神シリーズ三部作。「大魔神」「大魔神怒る」「大魔神逆襲」。大魔神の中で動き回る。
「あれ、重いのよ。俺、力あったんで、まあ、なんとか振舞ったけどね。1本映画撮ると疲れたねえ。目も疲れた」
そう。モンダイは、大魔神の目は橋本力のホンモノの目だった。被り物の穴から目だけ出した。「瞬きしないでほしい」と監督が注文を付けたので、瞬きをしなかった。目に力を込めて、えいっと。1シーンを瞬きしないで通した?! 「ああなると、もう、意地だよ意地」。意地で瞬きを堪えるなんざあ、ね。外野手は飛球を睨んだら捕球するまで瞬きはしませんからね。さすが、である。
その後は勝新太郎に気に入られ、その縁で香港映画「ドラゴン怒りの鉄拳」でブルース・リーの敵役で共演した。その件については「なんかねえ、あんまり覚えていないんだよね」だった。野球の一試合一試合は「結構覚えているけどねえ、映画に出たのは、一つ一つ、そんなに記憶がないんだよ」。そうだよナ。映画に出演する人間にとっては撮影が断片的で物語性に乏しい。野球は自分が連続ドラマに出ているから一球一球が脳に残るのである。
のちに、佐々木主税(横浜太洋ホエールス、横浜ベイスターズの守護神)が「ハマの大魔神」と仇名された。あれは、佐々木の風貌と投げるときの目をむく様が、橋本力の「大魔神」に似ていたからである。その元祖「大魔神」も、2017年10月11日死去した。83歳だった。ついでに言っておくが「ハシモト・リキ」は芸名。本名は「つとむ」。
僕はラッパ(永田雅一)のさまざまな行動に「妙な興味」を抱く。陸上短距離の飯島秀雄を「盗塁の名手」に仕立て、橋本力を「大魔神」に仕立てた。そもそも「毎日オリオンズ」という球団創設も、プロ野球2リーグ創立もラッパが絡んでいる。戦後まもない時代の自由な発想から「面白いコト」が始まるのが嬉しかった。「大魔神」の死が、昭和20年代……僕のガキ学生時分を思い浮かばせてくれる。
(諸岡達一)