2018年3月18日
第90回センバツが23日(金)開幕
「春は90回。夏は100回。高校野球は今年、春夏の大会とも節目を迎える」。
これは朝日新聞夕刊2面に、3月12日から5回連載の「春のセンバツをたどって」の書き出しである。
「エッ、朝日がセンバツの連載」。正直、私はびっくりした。
それどころか、朝日新聞は、朝刊スポーツ面でも「あの春 センバツ名勝負」を連載した。70年42回大会決勝簑島5-4北陽(延長12回)②89年61回決勝東邦3-2上宮(延長10回)③95年67回準々決勝今治西5-4神港学園(延長13回)④99年71回準決勝沖縄尚学8-6PL学園(延長12回)⑤03年75回準々決勝花咲徳栄2-2東洋大姫路(延長15回、引き分け再試合)。どれもスリリングな好試合だった。
第1回の書き出しが、春はセンバツから――。
これも「エッ!」だった。
夏は1915(大正4)年、春センバツは1924(大正13)年に始まったが、夕刊の連載で、そのルーツは、運動具店の美津濃商店(現ミズノ)が企画して1913(大正2)年8月に豊中グラウンドで始めた「関西学生連合野球大会」だったとある。
朝日新聞がその2年後に夏の大会を始めると、ミズノの大会は朝日の大会の代表を決める関西大会(大阪、和歌山、奈良)となり、第4回からは開催時期を1月、第8回からは3月に変えた。そして24年の第12回大会が最後となった。その年の4月1日から毎日新聞が名古屋でセンバツを始めたからである。
その間の事情は、ミズノ創業者の生涯をまとめた『スポーツは陸から海から大空へ 水野利八物語』(1973美津濃刊非売品、翌74年ベースボール・マガジン社刊)に詳しい、と紹介している。
夕刊の連載は、第1回「優勝旗は知る、大会の原点」②開催地、「名古屋に定めた」③「校風・品位」より前面に④21世紀枠、グンッと成長⑤時代連なって、今。
最終第5回は、1995(平成7)年の阪神大震災2か月後に開催したことを紹介しているが、2011(平成23)年の東日本大震災は、センバツ開幕の12日前に発生した。「中止」の意見が圧倒的な中、朝比奈豊毎日新聞社長(当時)は、「こんなときだからこそ」と、第83回の開催を決意した。重い決断だった。
開会式の選手宣誓。岡山創志学園のキャプテン野山慎介君はこう述べた。
「私たちは阪神大震災の年に生まれました。そして今、東日本大震災で多くの命が奪われ悲しみがいっぱいです。今私たちに出来ることは、この大会を精一杯元気を出して闘うことです。頑張ろうニッポン。生かされている命に感謝して」
朝日新聞夕刊連載の最終回は、こう締めくくっている。
(阪神大震災の1995年)3月25日、第67回大会が開幕。開会式では犠牲者への黙祷(もくとう)などのあと、大会歌「今ありて」(作詞・阿久悠、作曲・谷村新司)が合唱された。
《今ありて未来も扉を開く/今ありて時代も連なり始める》
多くの困難も乗り越え、今年、第90回記念大会。23日の開会式ではこの曲にのって球児が入場行進する。
編集委員・安藤嘉浩の署名があった。実は、安藤記者とは何回かお会いしたことがある。岐阜県立岐阜高校の高校球児で、立教大学では学生スポーツ紙「立教スポーツ」の記者をしていたという。
センバツを盛り立ててくれた安藤記者にお礼をいいたい。
(堤 哲)