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2018年7月22日

浅利慶太さんが亡くなって思い出すのは

 劇団四季を創設し、「キャッツ」「ライオンキング」などのロングラン公演で日本にミュージカル文化を根付かせた浅利慶太さんが7月13日亡くなった。85歳だった。

 毎日新聞1面の「余録」を23年2か月、6354本を執筆した諏訪正人さん(2015年没、84歳)は、俳優の日下武史さん(2017年没、86歳)らとともに劇団四季創設メンバーの1人だった。

 「10人だった創立メンバーは、今や私ひとりになってしまった」と、舞台照明家の吉井澄夫さんが追悼している(7月20日付日本経済新聞)。

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諏訪正人さん

 「旧制石神井中学の演劇部に入った私は、名コラムニストになる諏訪正さん(注:ジロドゥやコクトーの戯曲の翻訳、演劇評論などは「諏訪正」)と出会った。先輩の諏訪さんは、新進劇作家で慶応の予科で教えていた加藤道夫さんのもとに出入りしていた。加藤さんの縁で石神井と慶応の高校生がいつか芝居をやろうとメンバーに家に集まった。これが四季の母体だ」

 諏訪さんが日本記者クラブ賞を受けたパーティーのとき、浅利さんは、こんなエピソードを披露した。

 「パリに行ったとき、ちょうど諏訪さんが毎日新聞のパリ支局長。酔っぱらった勢いで、支局から総理官邸に国際電話をして、佐藤栄作首相を呼び出したんだ。諏訪さんは政治部の記者時代、佐藤番だったんですよ」

 「新聞記者は出ていけ!」。佐藤栄作首相がギョロ目をむいて憤然とした記者会見は、「退任時に国民にテレビで直接語りかけたら」と浅利さんがアドバイスした演出が裏目に出たものだった。

 浅利さんの著書『時の光の中で―劇団四季主宰者の戦後史』(文藝春秋、2004年刊)によると、劇団四季創立メンバーの俳優水島弘さんの父親が佐藤首相の鉄道省の先輩。その関係で寛子夫人に劇団四季の創立公演から毎回チケットを10枚買ってもらっていた。

 1967年2月、第二次佐藤内閣が発足した時、浅利さんは寛子夫人から呼び出された。「主人の長州なまりを直してほしい」と頼まれ、浅利さんは佐藤首相の家庭教師になった。

 まず直したのは、口癖の「そういうこんだ」を「そういうことだ」にしたこと。1対1の個人レッスンは、1年以上続いた。「セリフは、はっきり聞き取れるように」の劇団四季発声法を、佐藤首相が学んでいたのだ。

 「李香蘭」「異国の丘」「南十字星」。戦争の悲劇を語り継ぐ「昭和の歴史三部作」といわれる。その公演では、浅利さんは必ず劇場入口でお客さんを迎えた。諏訪さんも必ず姿を見せた。

(堤 哲)