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2020年4月23日

美智子さまから手紙をもらった清水一郎お妃記者

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 長谷川町子さんの「意地悪ばあさん」(毎友会HP随筆集2020年4月9日)を調べていて月刊「文藝春秋」1990年2月号「昭和を熱くした女性50人」に行き当たった。50人の中に「皇太子妃美智子」(上皇后陛下)があった。ライターは社会部の先輩・清水一郎さん(2012年没、85歳)だった。

 

 清水さんは、皇太子殿下(上皇陛下)の婚約発表前、池田山の正田邸で美智子さまと2人だけになられる機会があった。当時宮内庁担当で、社会部「皇太子妃取材班」。美智子さまの母親富美子さんに信用されていた。

 《たまたま正田家におりましたら、どこかの報道機関が押しかけ、私は鉢合わせになるとまずいので、茶の間にいることにしました。そこに美智子さんが入ってこられ、お話を伺うことになったのです。二人の話が隣の居間に聞こえるとまずいだろうということで、美智子さんがテレビのボリュームをあげたりしました。ところが隣から富美子さんが来て、小さくされてしまうのです。美智子さんは「子の心、親知らずだわ」とにが笑いされていました。

 そこでサンルームのようなところに場所を移して、話を続けました》

 婚約発表があったのは、1958(昭和33)年11月27日午前11時半。

画像1958(昭和33)年11月27日付特別夕刊 画像1958(昭和33)年11月27日付夕刊1面

 毎日新聞は、すでに用意していた8ページの特別夕刊を全国で一斉に配布した。1面トップの凸版見出しはカラー印刷した。画期的なことだった。

 お妃報道の過熱から宮内庁の要請で報道協定が結ばれた。特別夕刊は密かに制作された。『毎日新聞百年史』にこうある。

 《11月16日には緊急支局長会議が開かれ、〝発表と同時に配布する。それまでは1部でも外部に出さないように〟と厳命があったものである。前夜、支局長らは「特夕」の梱包を抱いて眠った》

 さらに《朝日の2ページ号外、読売の半ページ号外に比して圧倒的な質と量の勝利であった》と続けている。

 清水さんは夕刊1面で署名記事をものにしている。

 「こんどのことは、大変大きな出来事には違いありませんが、普通の結婚と変わりはございません」

 書き出しは、あの時、美智子さまが漏らされた言葉である。

 夕刊の中面に「お妃記者座談会」が載っているが、大森実ニューヨーク支局長(のちワシントン支局長→外信部長)の囲み記事がある。美智子さまは10月に

 極秘で欧米旅行。帰国する同じ飛行機にワシントン特派員の内田源三記者が飛び乗るまでの経緯を書いている。

 機内の日本人は美智子さまと内田記者の2人だけ。その模様は社会面に載っているが、雨の羽田空港で出迎えたのは毎日新聞の記者だけで、他社は気づいていなかった、という。

 そして翌59(昭和34)年4月10日にご結婚される。

 清水さんは、1面トップで再度スクープを放つ。

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1959(昭和34)年4月10日毎日新聞朝刊1面

 嫁ぎゆく心境、本社に寄せる
《ご婚約の後、お手紙をいただきました。その一部を特別に許可をいただいて…掲載させていただきました。結果的にご成婚に関して、私の二大スクープになりました》

 美智子さまから届いた便せん3枚の手紙。自分のペースで堅実に歩んでいくこと、婚約期間中、皇太子さまに励まされたことのうれしさを伝えていた。

 清水さんは、編集局長賞を受けた。

 それは8年にわたる「皇太子妃取材班」の努力の成果でもあった、と、取材班のメンバーだった牧内節男さんが「銀座一丁目新聞」に書いている=2012(平成24)年4月1日号「追悼録」清水一郎君逝く。

 《取材班のメンバーは杉浦克己社会部長、藤樫準二編集局嘱託(宮内庁記者60年)、柳本見一デスク、桐山真、清水一郎、牧内節男、藤野好太朗、古谷糸子、関千枝子、小峰澄夫の10名であった。現在生きているのは牧内と関の2人だけである》

 《皇太子妃として正田美智子さんの線をつかんだのは毎日新聞が一番早かった。情報は複数の筋からもたらされた。正田美智子担当になったのは宮内庁クラブの清水一郎記者であった。正式発表までに清水記者は何度も池田山にあった正田邸を訪れて美智子さんと会っている。清水君は記者としてよりも人間として信用されたのだと思う。美智子さまは民間から皇室に嫁ぐ悩みを清水記者に相談したこともあったと聞く。清水記者は慎重居士で粘り強くコツコツ仕事をするタイプであった。その性格を見抜いて当時、社会部デスクであった福湯豊デスク(故人)が警視庁捜査2課担当から宮内庁記者クラブに配置換えした。名文家・藤野好太朗記者を入れたのも福湯デスクであった。仕事がうまくいくかどうかは人事の妙が大きく影響する。

 (2012年)3月23日小雨降る中、西立川で開かれた告別式で喪主を務める長男の保彦さんが「小学校の5,6年生のころ牧内家で手造りのアイスクリームを頂いたがあの味が忘れません」と話した。そんなことすっかり忘れてしまった。あのころは寝食を忘れて仕事に励んだ。それから50年。戦友たちが相次いであの世に逝く……》

 牧内さんはことし8月の誕生日で95歳。関千枝子さん(88歳)は『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』(筑摩書房1985刊)の著者。広島の原爆忌に毎年足を運び、原爆の悲劇を語り継いでいる。

 清水さんは、私がサツ回りをしていた時、八王子支局長だった。その後、世論調査部長をつとめた。髪の毛をいつもいじっている、クセの記憶しかないが、退職後、1度だけ自宅に電話したことがある。クラシック音楽を聴いていた。防音が完璧なのであろう。かなりの音量だった。

(堤  哲)