2020年6月16日
東京毎友会が発足してことし69年―堤哲さんの歴史発掘レポート
このHPの主である毎日新聞東京本社のOB会「東京毎友会」は、1951(昭和26)年11月17日に発足した。69年前である。初代会長は高石真五郎元社長だった。
東京に続いて西部本社でも設立、大阪本社「毎友会」創立は1954(昭和29)年6月19日だった。
断捨離作業中に、社内野球史を調べたときの社報コピーで思わぬ発見となった。
呼びかけ人は、経済記者の笹沢三善さん(1989年没、96歳)。笹沢さんは、早大政経を卒業して、1918(大正7)年に入社した。
《毎日新聞社は僕が26歳の青年期から55歳の定年を過ぎて後も嘱託などで7年を暮らし、通算36年の生涯を送った思い出の職場である》
笹沢さんは、1926(大正15)年に『農家の副業 : 趣味と実益』と『水産王国』を出版している。現在の農水省を担当していたのであろう。
『水産王国』にこうある。《私は学者でもなければ、水産専門家でもなく、又、創作家でもありません。唯一介の新聞記者です。大正14年の夏中、東京日日新聞の経済欄に—恵まれたる海の幸、わが水産業—という表題で連載》した。これをまとめた。
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設立総会の日の日記を、社報の随筆欄に残している。
11月17日(土・晴)3時から小会議室で毎友会の設立総会。議長に推されて議事を 進める。名称を毎友会とすること、規約は発起人会の立案を議決して5時散会。皆熱心に討議されたのは、発起人としてうれしかった。
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設立総会の社報(昭和27年2月20日号)の見出しは——。
“毎友会”生る
停年者の互助組織
設立発起人のひとり・細沼秀吉さん(出版局元「生活科学」編集長、1961年没、65歳)が毎友会創設の趣旨をこう記している。
《本社に20年以上勤続し東京本社で停年となり退職したものを会員とし、会員の相互扶助を第一目的に、この結びつきを通じて第二線ジャーナリストとしての心身の切磋琢磨ならびに本社のよりよき発展に陰ながら力を尽くし、大きくは日本文化の進展にも寄与しようとするもの》
OB人脈の活用を目的としていたのだろうか。事業に「講演、出版活動その他を行う」ともある。
運営委員は10人。笹沢、細沼さんの他、岡野秀治、小倉承章、尾崎昇、笹井八郎、相馬基、平野杉松、藤森良信、水沢清三郎の名前が残る。
相馬基さん(1981年没、85歳)は、元明治大学の応援団長で、「337拍子の生みの親」とNHKの「チコちゃんに叱られる」で紹介された。相撲記者だが、「編集兼印刷発行人」として題字下に名前が載っていた。1949(昭和24)年に廃止されるまで20年間もだ。
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「毎友会」初代会長高石真五郎さん(1967年没、88歳)のことを改めて紹介したい。
千葉県出身。鶴舞尋常小学校を卒業、1893(明治26)年慶應義塾童子寮に入り、1901(明治34)年大学部法律科卒。大阪毎日新聞(大毎)小松原英太郎社長の私設秘書となり、社長執筆の社説の聞き書きをして、同年7月大毎入社した。
童子寮で、福沢諭吉から「福翁百話」に「贈高石真五郎君 諭吉」と肉筆サイン本を直接もらった、と書き残している。
慶應義塾野球部OB会「三田倶楽部」の名簿にも載っている。「もっぱら右翼手だった」と書いているから、一流選手ではなかったのだろう。
大毎入社の1年後には英国に留学。日露戦争後に日本人で初めてロシア入り。この時、作家のトルストイにも面会している。
ヨーロッパのいわば移動特派員として数々の特ダネを放ち、1909(明治42)年には帰国して、外国通信部デスクから部長。「外電の大毎」とうたわれるようになった。
国際オリンピック委員会(IOC)委員になったのが1939(昭和14)年。翌40(昭和15)年の東京五輪は戦争のため中止となったが、1964(昭和39)年の東京五輪を誘致、マラソンで円谷幸吉選手が銅メダルを獲得した表彰式でメダルを授与した。
その間、大毎同期入社で慶應義塾先輩の奥村信太郎(1951年没、75歳)のあとを継いで、戦後45(昭和20)年9月に社長に就任するが、11月に辞任。公職追放になった。
毎友会会長になったのは、公職追放が解除された後である。
高石さんはその後、日本自転車振興会(現JKA)の会長となるが、名前が残っているのは五輪関連である。
64東京五輪の標語は、毎日新聞の提唱で「世界はひとつ 東京オリンピック」となったが、その最終選考会で「世界はひとつ」でどうか、と発言したのが高石さんだった、と大島鎌吉さん(毎日新聞元ベルリン特派員、64東京五輪の日本選手団長、1985年没、76歳)が書き残している。
もうひとつ。1972年札幌冬季五輪が決まった66年4月ローマで開かれたIOC総会。高石さんは病気で出席できず、録音テープでメッセージを送った。そのメッセージが札幌開催決定の決め手になった。
ゴルフ好きだった。始めたのは47歳、1925(大正14)年からといわれる。大毎編集局のトップ、編集主幹の時だった。「大毎」を日本の一流紙に育てた本山彦一社長に睨まれてもゴルフをやめなかった。
1眼、2足、3胆、4力
高石が理事長をつとめた相模原ゴルフクラブなどにその揮毫が掲額されている。
東京本社のゴルフ会に「高石杯」がある。一番の歴史と権威を誇っている。時代が流れて今、風前の灯と聞く。しっかり受け継いでもらいたいと思う。
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私が1997年に繰上げ定年退職した際、3万円を払って毎友会に入会、そのときもらった名簿(96年10月現在)にある会員は1,542人だった。設立総会時の会員は約40人とあるから大成長である。
その後、名簿は作成されていないが、2020年2月現在の会員は1,385人である。
改めて会則を読むと、目的は「会員の親睦、相互扶助、毎日新聞社の発展に寄与」と、設立時と変わっていない。会員の資格が在社20年から15年以上に短縮されている。
石井國範会長から「毎友会発足の経過が明確になり、喜ばしい。さらに活動を充実させたい」とコメントが寄せられた。超高齢社会を迎え、このHPを通じて親睦・交流が図れればと思う。
毎友会HP http://www.maiyukai.com/
(堤 哲)