2020年7月9日
休刊の「南海タイムス」菊池まりさんからの便り
八丈島の地元新聞「南海タイムス」の休刊は、7月8日付毎日新聞夕刊で報じられた。
同社のHPには、休刊の挨拶があった。メールで連絡すると、菊池まりさんが休刊までの経緯を書いてくれた。
まりさんは、毎日新聞社会部八丈島通信部でもある。父親菊池正則さんからで、まりさんの記事が何本も毎日新聞に掲載されている。
社告——。
1931年 ~ 2020年 ありがとうございました
南海タイムスは今号(6月26日発行)をもちまして休刊いたします。
1931(昭和6)年の創刊から、およそ90年間にわたって八丈島のみなさまに支えられ、今日まで発行を続けられましたことを感謝申し上げます。
長い間、ほんとうにありがとうございました。
父が経営するローカル紙「南海タイムス」の発行と印刷の仕事に携わるようになったのは、1976(昭和51)年。オイルショックの2年後でした。昭和30年から勤めていた高齢の記者がひとり、という小さな新聞社でしたが、私が入って記者はふたりになりました。
2年後には、活版印刷からオフセット印刷へ転換し、紙面をタブロイド判からブランケット判に大きくしました。記者も3人体制になり、写真の掲載は容易になったのですが、写真植字による編集作業は過酷でした。新聞は週刊でしたが、取材、原稿書きより、印画紙の切り貼り、フィルム原板の修正など、紙面作りの方に時間が割かれ、印刷前日の作業は深夜までかかっていました。
小さな地域では、新聞は、政治新聞とか、行政の広報紙になりがち、と聞きます。記者は、中立の立場を守れるよう、「不即不離」で、みんなから離れないようにしつつ、深すぎない関係を保つことが大切では、と思います。画家の故・堀文子さんの信条「群れない、慣れない、頼らない」にも近い関係かもしれません。
ここ35年ほどは主に夫・苅田義之とふたりで作ってきました。その間、スタッフをはじめ、多くの人に助けられました。大きく変わったのはデジタル化に移行した1994年からです。楽に紙面の編集ができるようになり、1999年からは版下データを送信して印刷を外注。配達も郵送に切り換えました。こうして省力化できたことは、その後、長く発行を続けられる要因になったと思います。ただ、最近は郵送料や振込手数料の値上げが経営に大きく響くようになっていました。
私たちは高齢化し、人口減が続く中、若い人に託すには将来が見通せないため、徐々に事業を縮小してきました。コロナに押される形で休刊に踏み切りましたが、予想外に多くの方が復刊を望んでいることを知りました。体力が残っていれば、なにか新しい形で情報発信をしていけたら、と思っています。
私にとって、新聞の仕事を通して得られた最大のものが、眠っている古書との出会いでした。それらの古書を引用したのが、流人・近藤富蔵の編著書「八丈実記」(都指定有形文化財)ですが、この「八丈実記」と古書を読み比べると、富蔵は史料をいろいろ書き換えていることがわかりました。彼は、三度の自宅の火事で、原本を焼いたと伝えられていますが、それらの写本が国会図書館や大学の図書館などに残っており、確認することができました。「明治維新前後は偽文書が多い」といわれていますが、興味は尽きません。
いま伝えられている八丈島の歴史の多くが、その「八丈実記」を典拠としています。文化庁の元文化財調査官に寄稿を依頼し、南海タイムス最終号の前の号で、歴史解釈の誤りを指摘していただきました。これからも、まだ埋もれている史料を紹介していきたいと思っています。
南海タイムスは、東京日日新聞の八丈島通信員でもあった作家の小栗又一氏が1931(昭和6)年に創刊しました。その頃、たまたま島を訪れた私の祖父・吉田貫三が、行政職にあった人から、島には印刷所がないから機械ごと移住してもらえないか、と請われ、岐阜県大垣市で大正12年に創業した吉田印刷部は、昭和7年、八丈島に移転しました。
大垣市で受注していた印刷物(無声映画のパンフなど)のスクラップは、いまも社内に残っていますが、レトロなデザインが楽しいものばかりです。
小栗氏は創刊から2年後に島を離れ、新聞は祖父が発行を続けることになりましたが、戦前戦中戦後の新聞経営は苦労が多かったと聞いています。自社に印刷設備がなかったら、発行はこの混乱期に終わっていたと思います。戦時中、南海タイムスはなぜか、新聞統合の対象にならず、敵国言語の「タイムス」という名称の変更もしなくて済みました。ただ、記事の検閲は受けていました。
八丈島の人口は戦後長い間、1万人以上を維持していたのですが、現在は7300人ほどです。そんな小さな島で約90年も新聞の発行を続けられたのは、八丈島の人たちが支えてくださったからです。心から感謝しています。
(南海タイムス社・菊池まり)