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2020年8月29日

「記者清六の戦争」連載に関連して

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毎日新聞殉職社員追憶記『東西南北』

 伊藤絵里子記者の連載「記者清六の戦争」が8月29日付朝刊で終わった。連載は25回に及んだ。

 伊藤記者の曾祖父の弟、伊藤清六記者は、「マニラ新聞」に出向した。1945(昭和20)年1月8日、首都マニラのあるルソン島に米軍上陸。空襲も激化し、1月末に発行を停止して、マニラを脱出する。

 「逃れた地で陣中新聞」をガリ版刷で発行したが、最後は「ヤシ林をさまよい餓死」する。38歳だった。

 毎日新聞社が発行した、戦争で殉職した社員追悼記『東西南北』(毎日新聞社終戦処理委員会編集・発行、1952年刊)に星安藤四郎(経済部長→監査役)が追悼文を寄せている。

 《伊藤のオッサン、農政記者伊藤を高く評価する。観念的な農政評論家では決してなかった。日本の農業に脈々として流れる、血と土の精神を把握した、わが国農業の指導者であった》

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南京攻略戦を取材した東京日日・大阪毎日新聞の記者たち(1937年12月14日撮影)

 《僕は南方からの帰途、マニラで兄に再会することを唯一の楽しみにして      
いた。僕の搭乗機はマニラ空港に降り立った。しかしそれは給油の僅かの時間であって兄との再会は無残にはばまれた。名刺に祈御健闘と認め、これを人に託したまま空からの挨拶に心を残しつつ帰国したのであった》

 中安宏規(64年同期入社)の「濁水かわら版」に、従軍記者を調べていて『東西南北』(360頁)を古書店で入手した、という記述がある。

 表紙は餓死者が多かったルソン島山岳部の景観写真。題字は聖徳太子筆「法華経義疏(ぎそ)」(注:義疏は注釈書の注釈書)からの集字。

 敗戦時、資本金 1000 万円の毎日新聞社は、500 万円を海外で斃れた社員の状況把握、遺族への償いや生還者の給与の支払いに充てたと記している。

 中安は、毎日新聞社が満州事変以降、支那事変と太平洋戦争の戦場に派遣した社員数を『東日 70 年史』と『東西南北』から作成している。

毎日新聞社が戦場に派遣した記者など社員数

満州事変 錦州に 50 名余派遣 (東日 70 年史)
支那事変~敗戦 中国戦線の従軍特派員(大阪人事部資料) 華北 213 名
華中 307 名 華南 83 名 海軍関係 54 名、計 657 名。
終戦直前の記録なし。(東西南北)
1938 年度~39 年度 中国戦線38年上期のべ269名、下期のべ418名。
39年上期同570名、下期同628名 総計1905名(東日70 年史)
1940 年10 月~ 蒙古~タイ~仏領印度支那へ常駐特派員約 100 名、従軍特派員70 余名派遣 (東西南北)
1941 年太平洋戦争宣戦布告直後 ホンコン 10 名 タイ 15 名 マレー方面 10 名 フィリピン15 名
オランダ領印度支那 25 名 仏領印度支那 25 名華南 20 名 計120 名。連絡員 50 余名で総計 170 名余を戦時派遣。(東西南北)
42/2/15 シンガポール陥落→3/10 日 昭南(シンガポール)支局開設
支局長以下 10 余名 (東西南北)
43/3 入退社を除く異動 138 件中、内外地間異動 77 件(58%)
45/8 終戦時の状況 外地派遣社員 342 名(殉職を含む)。現地採用の南方新聞社員・連絡員 127 名の計 469 名に及ぶ。(東西南北)

 469人の地域別は、樺太・千島52、朝鮮312、満州211、中国華北14、華中23、華南22、台湾26、沖縄21、マレー・ビルマ252、フィリピン1,446、ジャワ・スマトラ94、その他の戦地46、欧州特派員6である(中安宏規調べ)。

 「記者清六の戦争」⑪で南京陥落から一夜明けた1937(昭和12)年1月14日に「東京日日」「大阪毎日」特派員の記念撮影(佐藤振寿写真部員撮影)が載った。冒頭に掲載した写真だが、その数の多いのに驚く。

 中安は、戦死者の数も調べた。全日本新聞連盟編『日本戦争外史・従軍記者』(1965年・新聞時代社刊)によるが、それによると太平洋戦争の死亡記者数は同盟通信56人、朝日新聞47人、毎日新聞66人、NHK39人、読売新聞38人、東京新聞4人、西日本新聞 1人で、計251人。

 『東西南北』には、76人が列記されている。清六の上司南條真一マニラ新聞編集局長は1945(昭和20)年6月15日戦病死と記録されている。

(堤  哲)