2020年9月2日
金大中事件がライフワークの古野喜政さん
西のヤマソウ(山崎宗次)と呼ばれた大阪社会部のやり手記者だった古野喜政さん(84歳)。2001年8月に日本ユニセフ協会大阪支部(現大阪ユニセフ協会)を立ち上げ、副会長を務める。足掛け20年である。
会報「ユニセフ大阪通信」第79号(2020年8月15日号)にこんな記事が載っていた。
大阪社会部時代、古野さんに大阪府警担当に引っ張り込まれた。
古野キャップ以下7人。捜査二課担当が鳥越俊太郎。私がそのカバーで捜査三課・四課担当だった。サブキャップ佐藤茂(1970年植村直己らがエベレストに登頂した登山隊に同行、故人)、捜査一課藤田昭彦、神谷周孝、防犯・交通藤田健次郎。
土曜日の午後、府警ボックスでカンテキ(七輪)を使って焼肉をよくやった。ニオイが府警中にわたって文句をいわれたこともあった。いい時代だった。
古野さんは小倉高校から京大法学部、猪木正道ゼミだった。60年入社。大津支局から大阪社会部。口八丁手八丁の事件記者だった。
府警キャップ時代からハングルを勉強、1973(昭和48)年3月~76(昭和51)年3月ソウル特派員。金大中事件、文世光事件などに遭遇。大阪社会部で培った事件取材をソウルでもいかんなく発揮した。
「金大中さんに最も近かった日本人記者は僕とちゃうかな」という。
1981年に『韓国現代史メモ:1973-76 わたしの内なる金大中事件』(幻想社)、退職後『金大中事件の政治決着 : 主権放棄した日本政府』(東方出版2007年刊)、『金大中事件最後のスクープ』(2010年05月刊)を出版した。金大中事件は、ライフワークなのである。
大阪本社社会部長時代にはグリコ・森永事件。同本社編集局長、常務取締役西部本社代表からスポーツニッポン大阪本社専務。
(堤 哲)