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2020年10月13日

角川春樹君のこと ー 映画「みをつくし料理帖」公開にあたって

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ゆうLUCKペン出版記念パーティーで(2020年2月26日)

野島孝一(元学芸部編集委員)

 堤哲さんに頼まれて、これを書いている。最近、角川春樹君が、毎日新聞をはじめ、あちこちでインタビューに応じている。自ら製作・監督した松本穂香主演の「みをつくし料理帖」(原作・高田郁)が2020年10月16日に公開されるのに伴い、宣伝活動でしゃかりきになっているのだろう。堤さんは、私が毎日新聞OBの同人誌「ゆうLUCKペン」に書いた自分史に、國學院久我山高校で私と角川が3年間同じクラスにいたと書いたところを目ざとく見つけて、”時の人“になった角川とのことを書けと言ってきたに違いない。

 残念ながら高校のころ、角川とそれほど親しかったわけではない。私は無口だったし、彼も無口なほうで、談笑した覚えがほとんどない。ただ教室では3年間席替えがなく、彼の後方に座っていた私は短く刈り上げた彼の“絶壁後頭部”の眺めになじんでいただけだ。“絶壁頭”については、私とて彼にひけをとらなかったのだが。そのころ(1957~60)の國學院久我山高校は男子校で、程度は相当低かった。井の頭線を挟んで、線路の向こう側には天下の秀才高、都立西高校があり、女子学生もいて線路を挟んで天国と地獄の様相を帯びていた。まさかのちに学芸部で机を並べた松島利行さんが、そのころあっち側の天国(西高)にいるとは思いもよらなかった。

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製作委員会ホームページから

 なにしろこっちには、やくざの舎弟を名乗る不良もいた。授業の終了後には畑が広がる校舎の前で他校の不良がたむろしてこっちの不良が帰るのを待ち受けていたこともあった。教室内の光景は索漠としており、ボタンまで真っ黒い制服はカラスのようで味気ないことこの上もなかった。

 柔道が正課で、週1回は道場でドタバタやっていた。当時の角川は色の白いやせた男で、今から思うと美男子だったかもしれない。ある日、角川がけいれんを起こして倒れたのを覚えている。だれかのかかとが角川の頭部を直撃したようだった。そんなこともあって、彼はひ弱な印象が強かったのだが、とんでもない。彼は早稲田を振って國學院大學に入ったのだが、拳闘部で活躍し、プロボクサーのライセンスも取ったと後で聞いた。渋谷でチンピラ相手に立ち回りをしたとも。ケンカしなくてよかった――。

 高校時代、彼の父親が有名な角川源義氏だとは知っていた。家族が複雑だとも聞いた。あるとき同じクラスの数人で、角川の家で勉強をすることになった。そのとき彼が妙なことを言った。「米を1合持ってこい」。何に使うのだろうと思いながら、おふくろに頼んで袋に米を入れてもらった。杉並区の彼の家に行くと、なんと車寄せのある豪邸だ。お手伝いさんが来て米を集めた。後からそれは握り飯になって現れた。いくら食い盛りの高校生が集まっても、もはや戦後ではない時代だよ。豪邸で食う持参米のおにぎりは、複雑な味がした。

 お互いが違う大学に進み、高校時代の友人たちとも疎遠になったが、思いもよらぬ形で角川と再会した。私がロッキード事件のさ中に東京本社社会部から学芸部に移った1976年に角川が初プロデュースした「犬神家の一族」が劇場公開され、大ヒットした。いまはなき日比谷の有楽座で完成披露試写会が開かれた。玄関には白いタキシードの角川が立っていて、「おい、野島だよ」と声をかけると「久しぶりだな」と応じてくれた。それはいい。後でレセプション会場に白塗りの棺桶が運び込まれた。いきなり中から現れたのは角川だった。度肝を抜かれた。あんなにおとなしかった奴がなあ。

 そのあとの彼の活躍は目覚ましかった。彼が製作した「人間の証明」「野性の証明」「復活の日」などの大作が、テレビのCMでバンバン流れる。一種の社会現象のようにヒットする。まるで神懸かりだ。そういえば、彼はスピリチャルや俳句の世界でも寵児になった。高校時代の彼とは、まったく別人のよう。

 彼は8本の映画を監督している。多分、製作だけでは飽き足らなくなったのだろう。最初の「汚れた英雄」(83年)は、人物像にまったく深みがなく、バイクのレースシーンも1社のバイクしか走らないので、気に入らなかった。監督として角川を見直したのは、「天と地と」(90年)だ。上杉謙信役の渡辺謙さんが病気で主役を榎木孝明さんに代わるハプニングがあったが、まずまずのヒットをした。私はカナダのロケに行き、角川監督を取材した。日本映画をカナダで撮るなんて、それだけでも常人には考え及ばない。川中島の合戦シーンが、まさかカナダで撮られたなんて見破った観客はどれほどいかだろうか。私が角川監督を評価したのは、カナダ人を含む大勢の助監督たちを束ねて指揮し、黒山のような軍勢を効率よく動かして、撮影していった技量だ。まるで野外のゲームのように助監督たちに命令を出し、群衆を動かす。彼は3000人のエキストラを外国で駆使したのだ。日本映画界で黒澤明監督以外にそういうスケールの監督は思い浮かばない。

 そうしてあの事件が起きた。社員カメラマンがアメリカからコカインを日本に持ち込み、角川も1993年に逮捕された。彼は罪を認めようとはせず、実刑をくらって2001年から4年間収監された。角川が「時をかける少女」(97年)を監督して撮り直すと聞いて取材したのは、裁判の係争中だったと思う。初代の「時をかける少女」(83年)は角川がプロデュースし、大林宣彦監督で撮って大評判になった。原田知世をスターにしたのも角川の功績だ。なんで新たに監督をして撮り直すのかを聞いたのだが、答えは忘れてしまった。角川監督版「時をかける少女」はモノクロ映画だった。当時はまだフィルムで撮影していたが、モノクロ映画は絶滅しており、第一、国内ではフィルムが生産中止になっていた。確か東南アジアでフィルムを探し出したようなことを言っていた。

 「みをつくし料理帖」は「笑う警官」(09年)以来の監督作品だ。正直言って角川監督がこれだけの情緒豊かな作品を作るとは思わなかった。日本の伝統文化がしっくりとなじんでいる。女心が繊細に描かれている。彼は確か5番目のカミさんと暮らしている。

 女心もいいかげんわかりそうなものだものね。