2020年10月20日
私設防潮堤が27.8mもの津波から旅館を守った! ——20日付朝刊「東日本大震災10年へ」続沿岸南行記ルポから
——羅賀(らが)地区に入り、細い道を上ると「本家(ほんけ)旅館」の看板が見えてきた。「よくおいでになりました」。畠山照子さん(94)が笑顔で出迎えてくれた。
小高い場所に建つ旅館からは、海沿いの一帯を見渡せる。震災前は住宅や商店など約80軒が並んでいたが、今は更地に。道路は整備されたが、通る車はほとんどない。「駐在所にスナックに雑貨店……。新鮮な物を食べてもらおうと、あそこにあった魚屋さんでよく買い物した。(今はどれもなくなり)寂しいね」
1946年、漁協の事務員だった栄一さんと結婚。51年に旅館を開いた。詩人の三好達治や作家の吉村昭ら著名な文人も訪れたという。
震災の2カ月前、栄一さんが88歳で亡くなった。失意の中で震災が起き、一時は旅館を続ける気力が衰えた。最後に客を泊めたのは2年前。今は90歳を超えての1人暮らしだが、「休んでいるだけ」と旅館の看板は下ろしていない。
眼下の海沿いに暮らした栄一さんの先祖は、明治の三陸大津波(1896年)で犠牲になり、昭和の三陸大津波(1933年)でも営んでいた雑貨店を流された。東日本大震災で平成の大津波を経験しても「お父ちゃんがいる家を空っぽにできない」と、ここを離れる気になれないのは震災当時から変わらない。
焼きおにぎりをごちそうになり、帰ろうとした玄関先で畠山さんから「お友達になってちょうだい」と声を掛けられた。「また来ます」。そう約束して車に乗り込み、手を振り合った。【安藤いく子】
◆あの頃は
岩手県田野畑村の二つの旅館では2011年3月28、29日に当時の担当記者が取材した。
本家旅館がある羅賀地区はがれきに覆われ、村内でも被害が深刻な地区だった。ここで津波は高さ27.8メートルまで到達したとされる。
当時、田野畑村の人口は約3800人で、29人が犠牲になった。
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写真の畠山照子さんは、毎友会相談役・高尾義彦さんの奥さまのお母さん。亡くなった照子さんの夫栄一さんが「城壁のような石垣」を、大金をかけて築いた。お蔭で東日本大震災の被害から免れた。
毎日新聞デジタルには動画もアップされているとのことです。
(堤 哲)