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2020年11月30日

池澤夏樹・評 『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』 (米本浩二・著)

毎日新聞11月28日付朝刊「今週の本棚」から。

苦海を生きる作家と編集者

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毎日新聞11月28日付朝刊

 今の時代に魂という言葉を本気で使う人がいるだろうか?

 魂は心ではない。心は人の中にあってその時々の思いを映すスクリーンである。しかし魂の現象はもっとゆっくりと推移する。そして、何よりも、魂は身体を離れることができる。

 心と心の出会いで魅せられれば性急に恋にもなるだろう。しかしそれが魂同士の邂逅(かいこう)ならば恋よりもずっと静かな、永続的なものになるはずだ。世俗的な理由から二人の心と心がぶつかる時でも、身体を離れた魂たちは穏やかに寄り添っている。

 始まりの時、石牟礼道子はものを書く主婦であり、渡辺京二は小さな雑誌を主宰する編集者だった。二人は互いを必要としていることに気づいた。

 道子が書こうとしていたのは水俣で発生した奇病のこと。患者たちの惨状のこと。それを活字にするのを京二は使命と思った。

 この本の著者である米本浩二は既に『評伝 石牟礼道子―渚に立つひと―』を書いているが、そこに書き切れないものがあった。京二との仲である。これが世間一般の女と男の間柄を大きく踏み越えるもので理解が難しい。そこで改めて本書が書かれた。補いではなく、延長でもなく、ことの経緯を魂の観点から見直すことを目指す。
道子は生まれて間もない頃、おそろしく泣く赤ん坊だった。それを京二は「この世はいやーっ、人間はいやーって泣いている」と説明する。魂のつながりがなければわかることではない。

 二つの魂がそれぞれの身体を出て、つかず離れず「苦海」であるこの世をさまよう。

 この二人と言えば当然のように水俣病闘争の話になるが、それについては前著の方が詳しい。『魂の邂逅』で興味深いのは京二が初めは消極的だったことだ。

 「自分はこの問題にあまり深入りしたくない」と言っていたのが、半年後には仲間を集めてチッソの前で坐(すわ)り込みを敢行している。この豹変(ひょうへん)について後に聞かれた彼は「まあ、結局彼女との関わりが決定的だったと思います」と答えた。
 その半年の間に二人の本当の「魂の邂逅」があったのではないか。後に京二は『苦海浄土』の解説にこう書く――

 「石牟礼氏が患者とその家族たちとともに立っている場所は、この世の生存の構造とどうしても適合することのできなくなった人間、いわば人外の境に追放された人間の領域であり、一度そういう位相に置かれた人間は幻想の小島にむけてあてどない船出を試みるしか、ほかにすることもないといってよい」

 伝記である以上、著者はその対象である人物から一定の距離を置いて客観的を心掛けなければならない。しかしこれは二人の「仲」の伝記である。そこに関わる著者は自分の魂も参加させざるを得なくなったらしい。事態に対して大胆な解釈をどんどん投入する。

 本書の終わりで道子・京二が「曽根崎心中」のお初・徳兵衛になぞらえられる。五十年に亘(わた)る道行き。

 言わば著者は自ら義太夫語りとなって、顔を紅潮させ見台(けんだい)から身を乗り出し汗を散らしながら一代記を熱弁している。伴奏の太棹(ふとざお)として石牟礼道子と渡辺京二の厖大(ぼうだい)な著作が傍らにある。

 読んでいて陶酔に誘われるのは当然だろう。(作家)