2021年4月30日
100年前、「毎日新聞」はベーブ・ルースのインタビュー記事を掲載した
本塁打数トップの選手が先発登板は「野球の神様」ベーブ・ルース(ヤンキース、当時26歳)が1921年6月13日にタイガース戦で果たして以来100年ぶり、と話題になった4月27日(日本時間)アーリントンでのレンジャーズ対エンゼルス戦。
大谷翔平(26歳)は「2番、投手」で先発出場。5回75球、被安打3、4失点、9奪三振で交代したが、チームは9-4で勝って2018年5月20日(現地時間)のレイズ戦以来、1072日ぶりの白星を挙げた。
打者大谷は、4打席2安打(二塁打・単打各1)、1四球、打点2、得点3。投げて、打って、走っての大活躍。先制点は、大谷が本塁にスライディングして得たもので、「泥のついたユニホームでマウンドに立つ投手は珍しい」とNHKの解説者。
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100年前のベーブ・ルースのインタビュー記事が「大阪毎日新聞」(毎日新聞の前身)1920(大正9)年8月21日付に載っている。ニューヨーク特派員高田元三郎(のち「東京日日」編集主幹→毎日新聞代表取締役)が健筆を振るった。
紐育ポログラウンドの選手席で
本塁打王ルーズと語る
大決心で商売人チームに投じた彼
早く母を喪ひ厳格な父に育てられた彼は
遠き日本の野球選手諸君への言伝と共に
ホームランの秘訣を説く
8月18日紐育に於て―高田特派員発電
ルースの打撃フォームと顔写真を載せ、社会面の左半分をつぶしている。日本にプロ野球はなかった。「商売人チーム」と見出しにある。同じ記事が「東京日日新聞」にも載っているが、扱いは小ぶりだ。
ここから先は、毎日新聞の草野球チーム「大東京竹橋野球団」が2014年に発行した『Baseball Tencyclopedia野球博覧』から引用する。Tencyclopediaは「野球を『歓喜の学問』にする」と「野球文化學會」を立ち上げた整理マン諸岡達一(59年入社)の造語である。「天才」と「百科事典」をかけたのであろう。
——「試合中に選手席(プレヤース・ベンチ)でルーズと快談」と小見出しがあって、「日本から御出ででしたか」と愛相のよいルーズは25万円の手で余の痩せ細った手を握った。ルーズの写真の載っている大阪毎日新聞を一葉差出すとその喜んだこと、とある。
ルースはボストン・レッドソックスから10万ドルの金銭トレードでこの年ヤンキースに入団した。当時1ドル=約2・5円だったから、「25万円の手」。この年の日本の総理大臣の月給は1000円だから、ざっと20倍だ。
初ホームランは7歳の時。ちっちゃな学校の捕手でした。ボルチモアで本職の野球選手となったのが19の時。まずボストンで435フィート(132メートル)という記録破りのホームランをやった。54オンスのバットでかっ飛ばす、と語っている。
54オンスをグラムに直すと1530グラム。現在大リーグでもこんな重たいバットを持っている選手はいない。マスコットバットで打席に入っているようなものだ。
《彼の打撃順が来た。静かに立ち上がったルーズは自署(サイン)をした球(ボール)1個掴んで来て「之を毎日新聞に呈します」と云ったと思ふと25万円の手に大バットを握りユニホームに包んだ巨躯をヅカヅカとホームベースの方へと運んで行った》
ルース25歳。レッドソックスから金銭トレードでNYヤンキースに移籍した年で、54ホーマーを放っている。放出したレッドソックスは2003年までワールドチャンピオンが遠のき、「バンビーノの呪い」といわれた。ルースが読売新聞の招きで来日するのは1934(昭和 9)年である。
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ベーブ・ルース情報は、諸サンが『野球博覧』でたっぷり披露している。
本名:George Herman “Babe”Ruth,Jr. 1895年2月6日~1948年8月16日、53歳。
本塁打:714本。本塁打王12回は今も破られていない。ボストンレッドソックス時代に1918年11本、19年29本、NYヤンキースに移って1920年54本、21年59本、1年置いて23年41本、24年46本、1年置いて26年47本、27年60本、28年54本、29年46本、30年49本、31年46本、6年連続である。
シーズン60本の記録を破ったのは、1961年ロジャー・マリス(NYヤンキース)。最終戦に61本を放った。
714本は、1974年ハンク・アーロン(アトランタ・ブレーブス)に破られ、アーロンの755本は、2007年バリー・ボンズ(SFジャイアンツ)に破られた。大リーグ記録は、ボンズの762本である。
投手成績:登板163、投球回数1221.1、94勝46敗、防御率2.28、奪三振488。
《レッドソックスからヤンキースに移り(1920年)打者に転向した後も時たま投げて5勝0敗は恐れ入る》
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大阪毎日新聞社の野球チーム「大毎野球団」は1925(大正14)年にアメリカ遠征。ニューヨークでヤンキース対ブラウンズ戦を観戦している。
ブラウンズにヒット打ちの達人ジョージ・シスラー。2004年イチロー(シアトル・マリナーズ)に262安打で破られるまで、1920年シスラーの257本が年間最多安打だった。
この試合4-4で延長戦に入り、10回裏、ヤンキースは先頭打者がヒットで出塁すると、ベーブ・ルースは犠牲バントで走者を2塁に進めた。本塁打より貴重な場面を見たわけだ。
アメリカ遠征は、大毎1万5千号記念事業のひとつとして実施されたが、大毎野球団は、当時日本で最強の野球チームだった。
総監督・奥村信太郎(編集総務、のち社長)、監督・木造龍蔵(社会部)。
選手13人に、のち野球殿堂入りが3人。(カッコ内は入社年月と出身校、★印は野球殿堂入り)
主将・二塁手★腰本寿(21年末、慶大)
投手 ★小野三千麿(21年4月、慶大)
新田恭一(24年8月、慶大)
捕手 森 秀雄(21年7月、慶大)
井川 完(20年8月、同志社大)
一塁手 渡邊大陸(23年8月、明大)
三塁手 内海 寛(20年3月、関学)
遊撃手 ★桐原真二(25年4月、慶大)
内海深三郎(23年1月,第一新港商業)
外野手 高須一雄(23年3月、慶大)
菅井栄治(22年5月、慶大)
二神 武(25年4月、立大)
川越(棚橋)朝太郎(22年4月、京都一商)
サンデー毎日は、メンバーの写真を表紙にして「亜米利加遠征」特集号を発行(1925(大正14)年3月22日号)。米大統領を表敬訪問して、ホワイトハウスで撮った写真が残っている。
これらはすべて『野球博覧』(A5判、415p)に書いてあります。残部が多少あります。
@1,000円(送料は竹橋野球団負担)でお分けします。興味ある方は申し込んでください。
(堤 哲:)