2021年6月25日
23年前、「蘋果日報」を訪ねた毎日新聞論説OBのメディア調査団
「報道の自由、暴政の犠牲に」/りんご日報最後の100万部/香港市民が列、販売直後に完売も(毎日新聞)
香港、消された言論/リンゴ日報最終号「暴政の犠牲」(朝日新聞)
香港紙 無念の廃刊/最後の朝刊 売り切れ相次ぐ(読売新聞)
香港の「蘋果日報(アップル・デイリー)」廃刊を伝える24日の朝刊各紙。1面コラム「余録」「天声人語」「編集手帳」も、揃ってこの事件を扱った。
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香港返還から1年後の1998年、香港の「言論の自由」はどうなっているか。毎日新聞論説OBでマスコミ学専攻の学者らの「香港マスメディア調査団」は、「蘋果日報」の本社を訪ね、当時の羅燦社長(当時43歳)にインタビューをした。残念ながら同紙の創業者、黎智英(ジミー・ライ)氏(当時39歳)に会うことはできなかった。
羅社長は、こう答えた。
「私どもの新聞が生き残れるか。それが香港の“言論の自由”のバロメーターになるのではないですか」
玄関ロビーには、その日の発行部数が表示されていた。41万3996部。95年6月に創刊以来、急速に売り上げを伸ばし、香港紙で最大の部数を誇る「東方日報」(当時、公表60万部)を追いかけていた。
「蘋果日報」は、その年(98年)の3月に、工業団地内に本社を新築、従来外注していた印刷を自社工場で行えるようになった。
「もし、どこかからの圧力で印刷工場から刷れないと断られたら、結果的に新聞発行が止まる。それを避けるために自社工場をもったのです」
今回、廃刊に至ったのは、国家安全当局が「蘋果日報」など関連3社の資産1800万香港ドル(約2億5000万円)を凍結したため、資金繰りに窮し、新聞発行を継続できなくなったためと新聞報道にある。
創業者でオーナーの黎智英氏(72歳)は、2020年8月、香港国家安全維持法違反容疑で逮捕され、12月に同法違反で起訴されている。1997年の香港返還が決まった時、米ニューヨークタイムスは、社説で「香港の自由よ、さようなら」と書いた。それが現実となったのである。
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「香港マスメディア調査団」は団長・鳥井守幸平成帝京大教授、副団長・天野勝文日大教授、秘書長・澁澤和重昭和女子大教授、他に柴田寛二城西国際大教授(2017年没、82歳)、前坂俊之静岡県立大学教授(肩書は当時)。毎日新聞OB以外で川名好裕現立正大学教授。
私(堤)も調査団に加えてもらい、帰国後、「香港メディア・ウォーズ」/揺れる「言論の自由」をスポーツニッポン紙で6回連載した。その2回目で「“圧力”に屈しない言論を」の見出しで、黎智英氏の写真を入れて「蘋果日報」を取り上げた。
記事を引用する。オーナーの黎智英(ジミー・ライ)氏は立志伝中の人物だ。中国広州から12歳の時、香港に密入国。若者のカジュアルウエア「ジョルダーノ」を開発、大実業家となった。
90年に週刊誌「壹」を創刊して言論界にも進出。香港返還の前に「香港人のための新聞マーケットがあるのではないか」と、95年6月に「蘋果日報」を創刊した。
羅燦社長は、79年に香港中文大学新聞学科を卒業、新聞よりテレビの記者が長かったが、94年にヘッドハンティングされた。
黎氏は96年3月に社長を羅氏に譲って一時アメリカへ渡ったが、香港返還後、再び香港に戻り、毎日午後3時から開いている紙面検討会を陣頭指揮、読者12人を集めて週1回開く「読者会」にも必ず出席している。
週刊誌「壹」で李鵬首相(当時)を批判したことから、北京にあった「ジョルダーノ」の支店に閉鎖命令。北京政府とは、以来関係改善がなされていない。香港の新聞で唯一北京特派員を置くことができない。
その上、政府機関はもとより、中国政府の資金が入っている会社とか、中国本土で事業展開している企業の広告出稿がない。
「1部5香港ドル(98年現在)のうち3ドルが本社の収入。97年度に初めて700万香港ドルの利益が出ました。98年度も7月までの4カ月で500万香港ドルの黒字です」と羅社長は説明した。
記事の最後にこう書いている。
《キャセイ航空は香港一の航空会社だが、機内サービス紙に「蘋果日報」はない》
(堤 哲)