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2021年8月3日

57年前の東京五輪閉会式ナンパは、「飲んべえ安」

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 《これがオリンピックだ。これが“世界は一つ”の東京大会なのだ。——そんなほほえましい、しかも強く人の心を打つシーンが24日の閉会式で満員のスタンドをわきにわかせた。選手たちの入場、退場行進のときの巧まざる演出がそれだった。各国の選手たちがとけこみ、腕を組み肩を抱き、走り、お辞儀をし……。そこには人種、宗教、政治などの違いはまったくない。若い友情と信頼と平和だけが、ひたすら自由に、たくましく燃え上がっていた》

 57年前、東京五輪閉会式の社会面の前文である。むろん毎日新聞だ。

 筆者は、社会部の安永道義さん。当時39歳。

 1面トップの記事も「まったくスケジュールにないことがおきた」と書き出している。予定稿が使えずに、勧進帳で吹き込んだのだ。

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安永道義さん

 安永さんは、社会部のデスクから熊本支局長に転勤する。熊本支局5年生だった三原浩良さん(2017年没79歳)が『地方記者』(葦書房1988年刊)に綴っている。

 《安永さん着任の第一声は「オレを支局長と呼ぶな」と無理なことを言う。「そりゃまたどうして?」と尋ねると「だってな、お前、支局長ての、一語々々区切って読んでみな」と言う。

 シキヨクチヨウ、なるほど色欲長と読めてしまう。されば何と呼べばいい。

 「安さんでいい。オレは飲んべえ安と呼ばれてた。だから安でもいい」》

 《「飲べえ安」を自称するだけあって大変な酒豪、その日のうちにご帰館なんていうことはまずなかった。翌朝がまためっぽう早い。薄暗いうちから起き出して支局の裏庭で「エイ、ヤー」と剣道の素振り。さっと各紙の朝刊に目を通してしまい…》

 毎週月曜日に支局長のコラムがあった。熊本版は「肥後評論」。

 《安永さんの毎週のコラムの特徴は文章も理屈も簡潔の一語に尽きる。わかりやすい、センテンスの短い文章でたたみかけていくもので、愛読者からは“安永節”ともてはやされていた》

 支局員に、64年入社鳥井輝昭、65年入社近江邦夫(2014年没72歳)、近藤正志、67年入社岸井成格(2018年没73歳)、工藤茂雄の名前が載っている。

 牧内節男「銀座一丁目新聞」2002年(平成14年)5月1日号追悼録。

 《毎日新聞社会部の同期生、安永道義君の事を書く。ガンに冒されながら最後までペンをはなさず、下野新聞一面のコラム『平和塔』を書きつづけた。11年間にその数3533本にのぼる。

 彼とはいくつかの共通点がある。ともに軍人の息子である。安永篤次郎さんは陸士27期(大正2年入校)で陸軍中将である。航空畑を歩まれたと聞く。安永君は昭和19年10月、陸軍特別操縦見習士官(特操)として、早稲田から学徒出陣する。筆者の父は、少尉候補生の4期(大正12年陸士入校)で陸軍大尉である。予備役後ハルピン学院の生徒監をつとめた。その志をついで私は昭和18年4月、陸士(59期)に入る。剣道はともに有段者である。戦後は二人とも社会部の「サツ廻り」から新聞記者をスタートする。下山事件(昭和24年7月)、三鷹事件(同)と大きな事件に狩り出され、苦労した仲間である。

 洒脱で男前の彼はよく女性にもてた。他意はない。女性にもてない記者は取材が下手であるといいたいだけである。熊本支局長時代の彼の部下であった三原浩良君(葦書房社長)は「支局長と呼ばせず、『のんベえ安』で通した。当時の支局は自由闊達な雰囲気であった。若い記者も先輩記者に容赦のない批判を浴びせ掛けていた」と書いている。「頑固で協調心がない君は支局長には向かない」とある社会部長(故人)からいわれ、ついに支局長を経験しなかった私には、羨ましい話である。

 安永君の『平和塔』から引用する。「敗戦の日」(昭和59年8月15日)『来年は戦後40年。戦後が終わり、新たな戦前が始まっているという人がいる。それが現代とも言う。戦後世代は平和にどっぷりとひたりきる。だが今日の平和は何によってもたされたものか。このことは忘れてほしくない』》

 《平成4(1992)年1月16日、66歳でなくなった。下野新聞の平成4年1月18日の「平和塔」には「がん告知の恐怖にもたじろくことなく、死の淵瀬までペンを滑らせた不屈の精神力。生涯一記者、コラムニストの姿勢を、いま後輩たちは誇りに思う」とある》

 安永さんは、社会部旧友会の懇親ゴルフ会に1度だけ参加した。1991年11月19日我孫子ゴルフ倶楽部での第3回。前半の9ホールを終えて、「靴擦れが出来た」といってリタイアした。この大会の優勝者は牧内節男さんグロス93、準優勝は浮田裕之さん同88だった。

 我孫子ゴルフ倶楽部の会員は、東京五輪のときの運動部長仁藤正俊さん(2006年没92歳)。早大剣道部OBで、安永さんの先輩だ。

(堤  哲)