2021年9月27日
大毎野球団も紹介されています―野球伝来150年記念展
野球伝来150年記念展「第1期 1872-1945 ベースボールがやってきた」が東京ドームにある野球殿堂博物館企画展示室で開かれている。12月9日(木)まで。
覗いて見ると、毎日新聞関連が目につく。まず大毎野球団。
大毎野球団は1920(大正9)年5月に結成された。初代監督は阿部真之助(元NHK会長)。6月には京都支局長に転任しているから監督はわずかな間だ。その後大毎社会部長、東京に転勤して整理部長、政治部長、学芸部長、編集局主幹を歴任した。学芸部長時代に菊池寬、久米正雄、横光利一、吉屋信子、大宅壮一、高田保、木村毅らを社友・顧問として迎えた。1937(昭和12)年に将棋の名人戦を始めた。44年60歳で退職。
2代目監督は社会部の木造龍蔵(当時37歳)。展示パネルの写真は1925(大正14)年アメリカ遠征をした際、ホワイトハウスにカルビン・クーリッジ大統領を表敬したあと撮影したものだが、右から9人目が監督の木造だ。その左は総監督でのちに社長になった奥村信太郎。その右はキャプテン腰本寿。
腰本は、慶應義塾大学の監督に招かれ、28(昭和3)年東京六大学秋のリーグ戦で10戦10勝の全勝優勝。その記念に慶大の青と赤のストッキングに白線1本を入れた。15シーズンに7回優勝した名将。67年野球殿堂入り。
その下のウイニングボールは、小野三千麿投手(写真の左から3人目)の収蔵品だが、大毎野球団が日本の「最強チーム」になったのは、慶大のエース小野が21(大正10)年4月に入社してからだ。身長1㍍77、体重75㌔。「重さと速さと、コントロールの三拍子揃った小野のタマは、振って当たらず、当たって飛ばず」といわれた。米大リーグ相手に初勝利の記録を持つ。59(昭和34)年最初に野球殿堂入りした9人の1人。
都市対抗野球大会生みの親・橋戸頑鉄のブロンズ像も飾られていた。ガラスケース入りで、反射して見ずらいのは勘弁していただくとして、頑鉄も野球殿堂入り第1号だ。
1903(明治36)年第1回早慶戦の時の早大キャプテン。05年の早大アメリカ遠征でもキャプテンを務め、帰国後『最新野球術』(博文館1905年刊)を出版した。
万朝報→大阪朝日新聞→大正日日新聞→東京日日新聞と渡り歩くが、大阪朝日新聞には1915年(大正4年)8月の第1回全国中等学校優勝野球大会終了後に、キチンとした大会規則をつくるために招聘された。東京日日新聞からは、明治神宮外苑の野球場新設に伴い、それにふさわしい野球大会の創設を頼まれた。
都市対抗野球大会は1927(昭和2)年に第1回大会を開いた。最高殊勲選手賞「橋戸賞」は、頑鉄が58歳で亡くなった36(昭和11)年の第10回大会に創設された。
写真の初代優勝旗は、この展覧会とは別に飾られていた。
(堤 哲)