2021年10月5日
150年前「東京日日新聞」の印刷機を輸入した男
10月5日朝刊地域面の連載「渋沢栄一を歩く」に、渋沢栄一とともにパリ万国博覧会(1867年)に参加した清水卯三郎(1829~1910年)が万博閉幕後、英国から米国に渡り、日本に持ち込んだ足踏み活版印刷機械は、東京日日新聞(現毎日新聞)の創刊に貢献した、とある。
清水卯三郎は、パリ万博でニューヨークの会社が出品した足踏み印刷機に着目して、直ちに製造元に注文。それが明治5(1872)年に輸入された。「創刊当時の東京日日新聞を印刷したのはこの機械である」(『毎日新聞百年史』)。
足で踏むことからfoot pressと呼ばれた印刷機は、最大22×15インチ(56×38センチ)の用紙を印刷できる。明治5年2月21日の創刊号から翌6年5月17日の第372号までは和紙を使っていて、大きさは横1尺5寸、縦1尺5分。実測で横45・8センチ~46・2センチ、縦31・2センチ~31・6センチ。「菊四截」だった。
当時すでに発行されていた日刊「横浜毎日新聞」が現在の新聞のように縦型だったのに、「東京日日新聞」は横型だった。「本町一丁目瑞穂屋卯三郎」が輸入したフート印刷機に合わせ、紙の大きさ、つまり創刊する新聞の判型が決まった。
記事に、《清水は輸入業「瑞穂屋」を浅草や日本橋で経営し、洋書や機材の輸入、自ら翻訳した西洋の専門書の出版を手がけた。特に歯科医学分野での寄与が大きく、1875(明治8)年に歯科治療用機材を米国から初めて日本に輸入販売したほか、歯科医学書も数多く翻訳出版した。
同時に、文化の普及にも関心が高く、日本語から煩雑な漢字を廃し、ひらがなを使って国民全体の知識を向上させるべきだとする「ひらがな表記」を提唱。西洋文明啓蒙を目的に外交官で教育者の森有礼が福沢諭吉らと73(明治6)年に創立した日本初の学術団体「明六社」で会計を担当するなど、文明開化を先導した》
『毎日新聞百年史』には、「清水は、明六社の会員、東京府議会の議員、商法会議所の議員になった」とある。
2022年2月21日、毎日新聞は創刊150年を迎える。
(堤 哲)