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2023年12月4日

「余録」で紹介された大阪本社写真部、国平幸男さんの写真

 12月3日毎日新聞朝刊コラム「余録」——。

 広島平和記念資料館の本館入り口には、原爆投下から3日後の1945年8月9日に広島市内で撮られた少女の写真が展示されている。当時10歳で被爆した藤井幸子(ゆきこ)さん(42歳で死去)。右手に重いやけどを負い、焼け跡でカメラに向けた表情から、つらさや切なさが伝わる▲ユネスコの「世界記憶遺産」の国内候補として、政府は広島への原爆投下後の惨状を伝えた写真群や映像を推薦した。そのひとつ、藤井さんの写真は毎日新聞の写真部記者、国平幸男さん(故人)が、市中心部で撮影した▲2017年、小紙のサイトで写真を見た東京在住の藤井さんの長男、哲伸さん(63)が「母親では」と名乗り出たことから、少女の身元が判明。19年にリニューアルした資料館でメインの常設展示となった

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 それがこの写真である。

 撮影した国平幸男記者(2009年没92歳)のことは、2019年10月13日に記事がある。

 ――毎日新聞大阪本社写真部の記者だった国平幸男さん(2009年に92歳で死去)は1945年8月9日午前10時過ぎ、広島駅に降り立った。日本初の鉄筋コンクリートの駅舎として1922(大正11)年に完成した広島駅は、骨格を残して全焼していた。国平さんは戦後50年の1995年夏、そのときの衝撃を回想記として記事にしている。

 「この世とは思われぬ寒々とした風景が目に飛び込んできた。木造家屋は跡形もなく焼け落ち、銀行や企業のビルだけがセミの抜け殻のように外壁を残して立つ。焼け焦げた街路樹。人影はほとんどない」

 国平さんは広島市街地を爆心地方向へ向かいながら撮影を続けた。現存する40枚の写真を検証すると、その道程は城下町の時代から栄えた西国街道に重なる本通と、近代に入り路面電車の開通で繁華街が形成された道(現在の相生通)に沿う。原爆は毛利による築城から約350年の歴史を重ねてきた広島市街地を一瞬で消滅させた。

 広島城の堀に由来する町名「八丁堀」に1929(昭和4)年、百貨店の「福屋」が出店したのを機に、本通と相生通をつなぐ南北の商店街が「金座街」と名付けられた。東京銀座より立派な街にしようとの意図が込められ、夜はスズラン灯が華やかに輝いた。

 「金座街」のネーミングが、時代を表している?

(堤  哲)