トピックス

2024年1月9日

ことし東京毎友会創設73年、大阪毎友会は70年

 毎日新聞東京本社の毎友会は、1951(昭和26)年11月17日に発足した。初代会長は高石真五郎元社長だった。東京に続いて西部本社、ご本社・大阪本社の毎友会は1954(昭和29)年6月19日に創立総会を開いた。その創立総会の模様を書いた社報を見つけた。

 まず東京の設立総会から。何故、毎友会か。発起人の1人・細沼秀吉さん(出版局元「生活科学」編集長、61年没65歳)が社報に書いている、

 《本社に20年以上勤続し東京本社で停年となり退職したものを会員とし、会員の相互扶助を第一目的に、この結びつきを通じて第二線ジャーナリストとしての心身の切磋琢磨ならびに本社のよりよき発展に陰ながら力を尽くし、大きくは日本文化の進展にも寄与しようとするもの》

 言い出しっぺは、経済記者の笹沢三善さん(早大政経卒・1918(大正7)年入社、89年没96歳)だった。笹沢さんは、創立総会の議長を務めた。

 運営委員は10人。笹沢、細沼の他、岡野秀治、小倉承章、尾崎昇、笹井八郎、相馬基、平野杉松、藤森良信、水沢清三郎。

 相馬基さん(81年没85歳)は、元明治大学の応援団長で、「337拍子の生みの親」とNHK「チコちゃんに叱られる」で紹介された。相撲記者だが、「編集兼印刷発行人」として題字下に名前が載っていた。1949(昭和24)年に廃止されるまで20年間も、である。

 小倉承章さん(63年没68歳)は、1916(大正5)年東京日日新聞入社の速記者である。戦後、連絡部30年勤続の表彰を受け、連絡部デスクから厚生部管理課長、50年に毎日オリオンズ誕生に伴いスポニチが東京でも発行することになり、東京スポニチに転職している。1920(大正9)年に、大毎と東日が名古屋で親睦の野球試合を行っているが、小倉は9番捕手で出場している。東日の1番は、第1回早慶戦の時の早大のマネジャー弓館芳夫(小鰐)、7番に都市対抗野球大会生みの親・島崎新太郎(政治部長→通信部長→社会部長)、大毎の3番は慶大のスタープレーヤーだった日下輝、4番が現在の夏の甲子園・第3回大会準優勝投手内海寛(毎日オリオンズコーチ)、8番に慶大野球部OBの高石真五郎の名前が残る。

 さて、大阪毎友会の設立総会——。

  大阪「毎友会」誕生
     設立総会に集う懐かしの百名

 《毎友会(大阪)の創立総会は「毎日大阪会館」の地鎮祭と日を同じうして6月19日午後4時から大阪本社3階大会議室に社友旧友約100名…発起人を代表して上田正二郎氏のあいさつがあってのち座長に新谷重造氏を推して規約を審議、満場異議なく原案を可決、規約第6条による委員は座長指名で

 池田寿、上田正二郎、新谷重造、中島祏文、平野岑一、平井正衛、藤井公平、藤井秀太郎の8氏を委嘱、会長は追って委員会で推薦決定することとして同5時半閉会》

 《引きつづき懇親会にうつり、本社側から本田親男社長、上田常隆営業総務、中坪八重蔵監査役の各役員、小林信司編集、渡辺勝営業、安藤哲信印刷の各局長以下各局次長が臨席、本田社長は「久々に先輩各位の集まりにお招きを受けて実にうれしい…本山先生(彦一元社長)の23回忌にあたる本年を期してその遺業をしのぶ記念塔として毎日大阪会館を建設の運びに達したことはよろこばしい…」》

 《終わって開宴、高石東京毎友会長、浅利西部毎友会会長、柿本吉良(呉市)からの祝電披露があり、旧友たちは社員会議の往昔をしのび、忘れ得ぬ大会議室のイスの感触をなつかしみながら懇談。同7時、上田営業総務の発声で毎友会万歳、平野岑一氏発声で毎日新聞社万歳を三唱して散会。ここに毎友会(大阪)は力強い産声をあげた》

 出席者がアイウエオ順に掲載されている。計97人。

 北尾鐐之助(1970年没86歳)は、大毎初代写真課長・写真部長である。

 高田正雄(1973年没74歳)は戦中・戦後の写真部長で、軍の焼却命令から戦時中のネガを守った。

 田村省三(木国、64年没75歳)は、大阪朝日から転職した俳人で、夏の甲子園大会「生みの親」として高野連から表彰されている。

(堤  哲)