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2024年3月15日

元社会部編集委員、萩尾信也さんが「書いた話 書かなかった話」を日本記者クラブ会報3月号に寄稿

ひとの心へ一歩でも 重なる悲しみ、生への問い

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 「記者になって、取り組みたいテーマはありますか?」。毎日新聞の学科試験を補欠で通過して臨んだ面接試験で問われ、「心といのちについて探求したい」と臆面もなく答えた。気恥ずかしい限りであり、今も迷宮の中に入り込んだままだ。

◆土下座 社長の名前間違えて

 入社したのは、高度経済成長とバブルのはざまにある1980年の春。同期の40人は、経済白書が「戦後の終わり」を告げた時代に生まれた「三丁目の夕日世代」だった。

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 早稲田大学に在学した4年間のうち2年は南米やアフリカを放浪し、世界には多様な文化や物差しが存在することを肌で学んだ。1年がかりのナイル川流域の旅から帰国したのは4年の夏。秋になって大学に顔を出すと、同級生が就職活動をしていた。      海外で出会った個性的な特派員たちの顔を思い浮かべて、新聞記者を志した。

 履歴書の書き方も知らずに、特技には「逃げ足が速い」、得意語学は「言葉の通じない民族との会話」と記入した。面接では、猛獣からの逃げ方や、裸族の娘と親しくなりたくて言葉の習得に挑戦した体験を話した。

 アポなしで早稲田大学の総長室を訪ねたのは、一次試験(学科)の補欠合格の連絡があった翌日だった。「チャンスをものにしたい」と思い立ち、ダメ元で総長室のドアをノックした。

 「推薦状を書いてください」「前例はあるの?」「聞いたことがありません」「前例を作ってみませんか」。総長や総長室長とのやり取りの末に、推薦状を本社の人事部に持参した。そして1時間後、私は総長室で土下座していた。「申し訳ありません。社長の名を間違えました」

 当時の毎日新聞は、平岡敏男社長だった。「としおの字は?」「俊です」と間違ったのは私だ。「このままでは失礼だな」。総長が書き直してくれた推薦状を手に人事部を再訪した。「名前は記者の基本だ。行動力は認めるがね」と面接の際に苦笑いされた。

 初任地は前橋支局で、通信部員を加えて15人ほどの大所帯だった。「新人記者もベテラン記者の記事も読者には知ったことじゃない」「連載やコラムは、行数ぴったりに納得がいくまで自分の手で書き直せ」。根気強く指導してくれるデスクがいた。

◆ヘリから飛び降り野宿して

 5年間の支局勤務を経て東京社会部に異動になった85年夏、日航ジャンボ機が群馬県の山中に墜落して520人が犠牲となった。リュックに登山道具を入れて社に上がり、「上野村は支局時代に通っていました」と現場取材を志願した。

 ホバリングするヘリから現場の尾根に飛び降り、ナタとブルーシートを使って建てた小屋で雨をしのぎ、10日以上に渡って自炊しながら取材した。原稿は無線で中継車を経由して村の前線本部に送り、それを本部詰めの記者が文字起こしして本社にファクスする、アナログの時代だった。

 山から下りると、全国各地の乗客のご家族を訪ね歩いた。「帰れ!」と塩をまかれたこともあった。「記者は、時には人の心に手を突っ込むような取材をしなければならない。だからこそ、相手に誠実に向き合いながら関わりを育め」。先輩に言われて、以来今に至るまで慰霊登山に通いながら、ご家族の軌跡を記してきた。

 「警視庁を担当してみるかい」「クエスチョンマーク付きですか」「まあな」「NOでお願いします」。社会部1年生の時の 部長との会話だ。部長は遊軍記者に加えてくれて、クギを刺した。「遊軍であり続けるかは、原稿次第だ」

 バブル期に、観光ビザでアジア諸国から外国人労働者が流入し始めた80年代後半には、「じぱんぐ」という長期連載の取材班に加わった。宿代800円の簡易宿泊所に泊まり込み、フィリピン人労働者と港湾荷役の仕事をしながらピンハネや劣悪な労働環境をルポした。後に経済が失速して路上生活者の存在が表面化した時は、路上で寝泊まりした。にわか体験であることは承知していたが、当事者の眼差しに一歩でも近づきたかった。

◆遺跡で砲声聞きながら

 「特派員の醍醐味は、異なる文化や物差しに遭遇することだよ。新しい地平が開けて、君のバックボーンになる」。紛争の続くインドシナでの特派員時代には、支局長から薫陶を受けた。

 国連主導のカンボジア和平で、国論を二分した末に自衛隊が海外に渡った時代だった。紛争後の初の民主選挙を控えて、戦火を逃れて避難してきた人々と一緒にアンコールワットの遺跡で砲声を聞きながら眠れぬ夜を重ねた。ワープロで打ち込んだ遺書を、机の引きだしに忍ばせた。

 「自衛隊の話ではなく、カンボジア人の記事を書きたい」との思いがあった。国連も政府軍も自衛隊もいない遺跡から、砲声が止んだ町の投票所に歓喜とともに向かう人々の姿を記録することができた。

 「一緒に三途の川を渡ろう」「僕は川の途中で帰ります」。末期ガンを患った遊軍記者の大先輩が「自らの死出の記録を最終稿としたい」と決意した時は、先輩と聞き書き役を志願した私はこんな言葉を交わした。「最後まで目をそらすな。意識を失った後は、君が全てを記せ」。心臓の最後の鼓動は、聴診器で聞いた。メールのない時代に、読者から寄せられた手紙やファクスは3000通を超えた。

 「ひとの心のアンテナである五感を探求したい」と発起し、「目の探訪記」や「手話の探訪記」というルポに取り組んだこともある。アイマスクを1週間つけて暮らし、手話で暮らす子どもたちの施設に泊まり込んで、彼らの世界を探求した。視覚障がい者や聴覚障がい者の世界が理解できるわけではないが、音や匂いや触覚に映る世界に触れることができた。我々が「現実」と思い込んでいる世界は、「折々の心象が醸し出す一面的な世界にすぎない」との気づきもあった。

◆「いつか、いいと思えたら」

 東日本大震災が日本列島を震撼させた翌日には、社機で羽田から函館に飛んだ。「原発が爆発した」との無線が入ったのは、上空を通過した直後だった。累々とがれきが連なる沿岸部は、地図の海岸線が書き換えられたように思え、被災者の慟哭が沸き上がってくるようだった。

 6日後に、少年時代に暮らした岩手県釜石市に入り、知人の家に居候して発信を続けた。「週に一回連載を書かせてくれ」「お前は自分に甘い。毎日書け」。同期の編集局長にはっぱをかけられ、連載は300本以上を数えた。当時、55歳。ポンコツの身体をだましながら、被災者を訪ね歩いた。

 「悲しみから逃れる方法は?」「生き続ける意味は何」。被災者の問いかけは、日航機事故や紛争地で家族をなくした人々の言葉に重なった。

 津波に襲われた際に、すがりついた人の手を払いのけた女性もいた。「書かれたら、心が折れてしまう」という思いに、記事にはしなかった。「いつの日か、あなたがいいと思えたら僕に書かせてください」。災害や事故や紛争の取材では、そんなやり取りが幾度もあった。苦しみの底にうずくまる人の傷口を広げてしまうことは、避けたいと思った。

 現役最後の原稿は、震災から10年後の特集記事だった。事故翌日の飛行ルートを再び社機でたどりながら、その変貌と被災地で暮らし続ける人々の思いを重ねた。書き出しはこう書いた。『あの時、あなたはどこにいて、何を思い、どうしたのか。同時代を生きた人の心に、鮮明な記憶とともに刻まれた出来事がある』

 今回、本欄の執筆を依頼され、スクラップをめくると、当時の情景が音や匂いを伴ってよみがえってきた。「人間の数だけ、生老病死のドラマがある」。ガンで逝った遊軍記者の先輩が、病床で残した言葉とともに…

 はぎお・しんや▼1955年長崎県生まれ 80年毎日新聞社入社 前橋支局 東京社会部 バンコク兼プノンペン支局 サンデー毎日副編集長 外信部副部長 社会部専門編集委員を経て 2022年に退社 現・客員編集委員 02~03年の連載企画「生きる者の記録」で早稲田ジャーナリズム大賞 11~12年に東日本大震災の長期連載「三陸物語」で日本記者クラブ賞を受賞 著書に『じぱんぐ』『生きる者の記録』『三陸物語』『生と死の記録』など