2024年5月13日
初代環境庁記者クラブ担当は、原剛さん。環境ジャーナリスト誕生だ
——環境省の前身の環境庁は1971年7月1日、霞が関の官庁街から離れた木造庁舎で出発した。水俣病など公害対策が議論された前年の「公害国会」後に設置が決まった▲4日後の内閣改造で長官に就任したのが医師出身の大石武一氏だ。「実質的初代長官」は早速、動いた。翌8月、熊本、鹿児島両県から水俣病認定を棄却された9人の処分を取り消し、「疑わしきは救済」と認定基準を緩和した……
10日付朝刊1面「余録」の書き出しである。
千駄ヶ谷にあった木造庁舎には冷房がなかった。発足1週間の記事には扇子で冷をとる職員の写真を載せ、《「これが無公害冷房です」と、センスでパタパタ。暑さにうだる環境庁職員》の説明をつけている。
環境庁記者クラブの初代担当は、社会部の原剛さん(62年入社)だった。当時記事は無署名だが、筆者は原さんに違いない。
原さんは、その年の暮れ「新聞研究」71年12月号に《スタートした「環境庁記者クラブ」—公害現場から攻めのぼり、実効ある政策とは何かを問う》の見出しで、発足当時のことを書いている。
・記者クラブ「環境問題研究会」は、57社・130人の大世帯でスタートした。
・「庁是」は「世論の要求を敏感に反映できる、開かれた、世論と共にある環境庁」(大石武一長官)「繁文縟礼を拝し、明快で、スピーディーな近代的役所」(梅本純正事務次官)。
・公害を助長してきた自民党内閣のスケイプゴートにすぎない、いや新しい酒を盛った新しい皮袋、「なにか」を実行するのではないか—評価は揺れ動いている。
・水俣から、ヘドロの富士から、瀬戸内海から、尾瀬ケ原から、美が原から告発があいついでいる。
環境ジャーナリスト原剛の誕生でもあった。「新聞研究」には、その後「公害記者論」(72年6月号)、200カイリ元年の77年には「遠洋に長く深く、資源荒廃の影」を書き、91年7月には「日本環境ジャーナリストの会」を発足させている。
98年早大大学院アジア太平洋研究科教授。2008年定年の際、「早稲田環境塾」を創設して塾長として講座を継続した。早稲田環境塾編で『高畠学』(2011年)、『京都環境学[宗教性とエコロジー]』(2013年)。単著として『日本の「原風景」を読む : 危機の時代に』(2020年)を藤原書店から刊行した。
早稲田環境塾の目的「環境日本学の創成」は、京都の独立行政法人「総合地球環境研究所」に引き継がれ、4月1日、同研究所に「上廣日本環境学センター」が開設されました。センター長には早稲田での同人、吉川成美広島県立大教授が就任しました。地球研の所長、山際壽一京大前学長(「人類・ゴリラ学」)が率先してセンターを新設しました。「人類とは何か、ゴリラに学ぶ」がセンターの副題です(笑)―と原さん。
講演の演題は「文化としての『環境日本学』―いのちはめぐる―」など。
(堤 哲)